洗い流される過ち
「……広いな」
ユウに勧められるまま大浴場へやってきたガレスは、中へ足を踏み入れたところで思わず立ち止まった。
つい先ほどまで、三人はユウと話していた。
フィアが長い間抱えていた気持ちを打ち明け、ユウは過去を責めることなく受け入れた。そして遠方の依頼を終えたばかりだと知ると、まるで昔と変わらない調子で言ったのだ。
『疲れてるなら、温泉に入っていきなよ』
その言葉に甘えることにして、三人はそのまま大浴場へやってきた。
「話には聞いてたけど……本当に広いのね」
セシルも珍しく驚いた顔で周囲を見回している。
中央には大人数が一度に浸かれる大きな浴槽があり、その周囲には熱めの湯やぬるめの湯、小柄な種族向けの浅い浴槽、大型種でも肩まで浸かれる深い浴槽が並んでいた。
さらに奥には露天風呂があり、白い湯気の向こうには人間だけでなく、獣人やドワーフ、魔族の姿まで見える。
「さっき外から見た時も思ったけどよ、本当に人間も魔族も関係なく入ってんだな」
ガレスが呆れたように言うと、フィアはその光景を眺めながら小さく笑った。
「ユウらしいかも」
「どこがだ?」
「こういうところ」
「だから説明になってねぇって」
そう返しながらも、ガレスにも何となく分かる気がした。
昔からユウは、相手が誰だからという理由で態度を大きく変えるような人間ではなかった。
困っていれば手を貸し、喉が渇いていれば水を用意し、疲れていれば休んだ方がいいと言う。先ほど自分たちに温泉を勧めたのも、きっと同じなのだろう。
三人は身体を洗い、まずはぬるめの浴槽へ入った。
肩まで湯に沈んだ瞬間、ガレスの口から勝手に声が漏れる。
「……あぁ。これは……駄目だな」
「何が?」
隣に入ったセシルが聞く。
「もう動きたくねぇ」
「それなら同感」
セシルも浴槽の縁へ背中を預け、フィアに至ってはすでに目を閉じている。
「……あったかい」
その声は、つい先ほど涙を流していた時とは違い、ずいぶん穏やかだった。
三人はしばらく何も話さなかった。
遠くでは子供たちの笑い声が聞こえ、別の浴槽では冒険者たちが今日の依頼について話している。露天風呂の方からは、聞き覚えのあるダンの声まで飛んできた。
「グーちゃん! また湯船の中で身体振るなって言ってんだろ!」
続いて、元気な鳴き声が響く。
「わふ!」
ガレスが目を開けた。
「……あのグレートヘルウルフ、また風呂入ってんのか」
「常連みたいね」
セシルが平然と答える。
「魔物が温泉の常連って何だよ」
「ここでは普通なんじゃない?」
フィアが笑い、ガレスもつられて笑いかけたが、すぐに湯面へ視線を落とした。
少しの間を置いて、ぽつりと呟く。
「……俺たち、焦ってたんだよな」
セシルが横を見る。
「急にどうしたの?」
「いや……ここに来てからずっと考えてた」
ガレスは湯の中で両手を組んだ。
「あの頃、俺たちも少し名前が売れ始めてただろ。依頼の難度も上がって、もっと上へ行けるって思ってた」
「そうね」
セシルは否定しなかった。
強い魔物を倒し、難しい依頼を成功させ、報酬を増やし、さらに強くなる。
気づけば、そればかりになっていた。
「ユウを外した時も、戦えるかどうかしか見てなかった」
フィアの表情が少し曇る。
「攻撃できない。前衛にもなれない。強い魔物が出れば俺たちが守らなきゃならない。だから、この先には連れていけないって」
ガレスは苦い顔をした。
「でも、いなくなってから分かった。あいつがやってたこと、結構多かったんだよな」
野営地へ着けば、いつの間にか水が用意されていた。濁った川しかなくても飲める水があり、料理にも使えたし、傷を洗う時にも困らなかった。
それをいつの間にか当然だと思っていた。
「最初の野営なんて最悪だったな」
セシルが少し笑うと、ガレスは嫌そうな顔をする。
「その話すんのか?」
「川へ水を汲みに行ったあなたが転んで、全部ひっくり返した話?」
フィアまで笑う。
「しかも二回」
「二回目は桶が悪い」
「一回目は?」
「石が悪い」
「全部何かのせいにするのやめなさい」
セシルの冷静な一言に、フィアが吹き出した。
ガレスも苦笑する。
久しぶりだった。
依頼の話でも、魔物の話でも、次にどこへ行くかという話でもなく、くだらないことで三人が笑うのは。
やがてセシルが静かに口を開く。
「私も同じよ」
ガレスとフィアがそちらを見る。
「ユウを見下していたと思う」
普段のセシルからは珍しい言葉だった。
「魔法が使えない。戦えない。私たちの方が役に立っているって、どこかで思ってた」
「セシル……」
「だからガレスが外すと言った時、合理的だと思った。反対もしなかった」
セシルは目を閉じる。
「今でも、当時の判断がすべて間違っていたとは思わないわ。あの頃の依頼は本当に危険だったし、ユウを守りながら戦う余裕がなかったのも事実だから」
「……ああ」
ガレスが頷く。
「でも、だからって『使えない』と決めつけてよかったわけじゃない」
三人の間に短い沈黙が落ちる。
フィアは湯を両手ですくい、指の間から落ちていく雫を見つめながら言った。
「私も、みんなについていくことしか考えてなかった」
つい先ほどユウへ謝った時、ようやく認めることができた気持ちだった。
「ガレスとセシルが前へ進んでたから、私も置いていかれたくなかった。ユウを引き留めたら、自分まで足を引っ張る側になる気がして……」
ガレスが何か言おうとしたが、フィアは小さく首を振った。
「分かってる。誰もそんなこと言ってなかった。でも、私は勝手にそう思ってたの」
セシルが小さく息を吐く。
「結局、三人とも余裕がなかったのね」
「かもな」
ガレスは浴槽の縁へ頭を預けた。
「強くならなきゃ、次へ行かなきゃ、止まったら駄目だって……ずっとそんな感じだった」
しばらく黙ったあと、ようやく本音が漏れる。
「……疲れたな」
フィアがガレスを見る。
セシルは少しだけ笑った。
「ようやく認めたの?」
「うるせぇ」
「今回の依頼だけじゃないでしょう」
「ああ」
ガレスは天井を見上げた。
「前の依頼も、その前も。終わったらすぐ次の仕事探して、また出発して……いつからちゃんと休んでなかったんだろうな」
セシルも答えられない。
フィアは肩まで湯に沈みながら呟いた。
「ユウがいなくなってから、私たち前より休まなくなったよね」
その言葉が妙に胸に残った。
三人になっても依頼はこなしたし、むしろ戦闘だけなら効率は上がったのかもしれない。
けれど、野営では疲れて眠るだけで、朝になればすぐ出発し、依頼を終えれば次の仕事を探す。
いつからか、立ち止まることそのものを怠けることのように感じ始めていた。
ガレスは長く息を吐いた。
湯の温かさに包まれながら、少しずつ身体から力が抜けていく。
「なんか、本当に洗い流されてるみたいだな」
「何が?」
フィアが聞く。
「色々だよ」
ガレスは目を閉じた。
疲れも、焦りも、意地も、自分たちは正しかったのだと思いたかった気持ちも、そしてユウに対する後悔も、なくなるわけではない。
なかったことにもできない。
それでも、ずっと抱えたまま力を入れ続ける必要はないのだと、そんな気がした。
フィアも穏やかに笑う。
「うん。私もそんな感じする」
セシルも肩まで湯に沈む。
「温泉にそんな効能があるとは聞いてないけど」
「ユウなら『気のせいじゃない?』って言いそうだな」
「言いそう」
三人は顔を見合わせて、また笑った。
しばらくして、ガレスが大きく伸びをする。
「……もう少し入ってくか」
「珍しいわね。いつもなら時間がもったいないって言うのに」
セシルに言われ、ガレスは鼻で笑った。
「今日はいいんだよ」
「次の依頼は?」
フィアが聞く。
「まだ考えなくていい」
その答えに二人が少し驚く。
そしてガレス自身も、口にしてから気づいた。
以前なら、そんな言葉は出なかった。
「せっかくユウが休んでけって言ってくれたんだ」
ガレスは湯気の向こうを眺めながら言う。
「今日くらい、本当に休もうぜ」
セシルが小さく笑った。
「賛成」
フィアも頷く。
「うん」
過去は消えない。
自分たちが間違えたことも、抱えている後悔も、ユウにまだ言わなければならないことも残っている。
けれど今は、温かな湯に肩まで浸かり、張り詰めていた身体と心を緩めればいい。
前へ進むことばかりを考え続けていた三人は、この場所でようやく立ち止まり、休むことを思い出し始めていた。
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