閑話 大浴場計画
上級氷精霊がやわらぎの谷に滞在するようになってから、数日が過ぎた。
以前まで朝晩になると急激に冷え込んでいた谷の空気は驚くほど穏やかになり、露店街を歩く客たちも厚手の外套を着込む必要がなくなっていた。
今日も朝から、やわらぎの湯には多くの客が訪れている。
「ユウー! また団体客だぞ!」
玄関の方から響いたダンの声に、源泉の確認をしていたユウは顔を上げた。
「また?」
「まただ。しかも今度は二十人くらいいる」
「二十人……?」
嫌な予感がして玄関へ向かうと、そこには予想以上の光景が広がっていた。
人間の冒険者だけではない。獣人の一団に、魔族らしい角を持った旅人、それどころか少し離れた場所には身体の大きなオーガまで立っている。
どうやら最近になって、やわらぎの谷の噂がさらに広い地域へ伝わり始めたらしい。
「温泉というものに入れば、疲れが取れると聞いた」
大柄なオーガが期待に満ちた目で言う。
「もちろんです。今日はゆっくりしていってください」
ユウがそう答えると、後ろからダンが小声で聞いてきた。
「で、どこに入れるんだ?」
「普通に浴場へ……」
そこまで言って、ユウは止まった。
現在の浴場には、すでにかなりの客が入っている。
しかも問題は人数だけではない。
獣人には尻尾があり、翼を持つ種族もいる。オーガともなれば、一人で人間三人分ほどの場所を取る。
「……入れるかな」
「無理だろ」
ダンの返事は早かった。
とりあえず時間をずらして案内することにしたものの、昼を過ぎても客足は途切れなかった。
温泉手形を持った常連客、旅の途中で噂を聞いた冒険者、商人、魔族、獣人。種族も立場も関係なく、次々と人がやってくる。
浴場の前では、ついに順番待ちの列まででき始めていた。
「お風呂に入るために並ぶ日が来るなんてね」
カヤが苦笑しながら列を整理している。
「嬉しいことではあるんだけどなあ……」
ユウも困ったように笑った。
最初は自分たちが疲れを取れればいいと思って作った温泉だった。それが今では、遠くからわざわざ客が訪れる場所になっている。
ただ、今の浴場はそこまで大勢を受け入れることを想定して作られてはいない。
さらに問題は別のところでも起きていた。
「狭い!」
浴場の中から、野太い声が響いた。
ユウとダンが様子を見に行くと、例のオーガが申し訳なさそうに湯船の隅へ身体を寄せていた。
本人はできるだけ小さくなっているつもりらしいが、どう見ても小さくなっていない。
その横では獣人たちが尻尾を抱え、人間の冒険者たちは岩壁にぴったりと背中をつけている。
「おいユウ」
「うん」
「これはさすがに限界だぞ」
「……だね」
その日の夕方。
最後の客が浴場から出ていった頃、ユウは湯船の縁に座りながら頭を抱えていた。
「広くした方がいいのかなあ」
「した方がいいんじゃなくて、するしかないだろ」
隣で湯に足を浸していたダンが呆れたように答える。
そこへ、浴場の入口から低い声が飛んできた。
「今さら気づいたのか」
振り返ると、腕を組んだドグランが立っていた。
仕事を終えた帰りらしく、肩にはいつもの工具袋を担いでいる。
「ドグラン」
「昼間から見ていたが、あれでは浴場が客に負けている」
「浴場が客に負けるって何だよ」
ダンが突っ込むと、ドグランは気にする様子もなく浴場を見回した。
「元々ここは、これほど多くの客が来ることを想定して作っていない。それに今後は人間だけではなく、獣人や魔族、精霊……もっと大きな種族が来る可能性もある」
ユウは先ほどのオーガを思い出した。
確かに、このままでは同じことが何度も起こる。
「だったら、少し広げる?」
そう尋ねると、ドグランは眉をひそめた。
「少し?」
「うん。今の倍くらい」
「足りん」
「じゃあ三倍?」
「足りん」
ユウが困っていると、ドグランは浴場の奥にある壁を指差した。
「この壁を抜く」
「え?」
「向こう側の岩盤まで掘り抜いて、新しい浴槽を作る。今ある浴場と繋げれば相当な広さを確保できる」
ドグランはそこで一度言葉を切り、さらに続けた。
「どうせ作るなら、人間の基準に合わせる必要もない。オーガだろうが獣人だろうが、翼持ちだろうが、全員が余裕を持って入れる大きさにする」
ダンが嫌な予感を覚えたように眉を寄せた。
「お前、それどれくらいの大きさを考えてる?」
ドグランはしばらく浴場を眺め、それから当然のように答えた。
「百人は入れるようにする」
「デカすぎるわ!」
浴場にダンの声が響いた。
しかしドグランはまったく動じない。
「今はそう思うだけだ。そのうち百人でも足りなくなる」
「いやいや、さすがにそれは――」
「今日だけで何人来た?」
「……」
ダンが黙った。
ユウも答えられなかった。
実際、この谷を訪れる客は日を追うごとに増えている。
しかも最近では、人間と魔族が同じ湯船で世間話をしている光景すら珍しくなくなった。
種族ごとに浴場を分けるより、最初から誰でも入れる広い場所を作った方がいいのかもしれない。
ユウは静かに湯面を見つめた。
「みんなで入れる風呂か……」
その言葉に、ドグランが頷いた。
「そうだ。ただ広いだけではつまらん。中央に大きな浴槽を作り、周囲には温度の違う湯を配置する。身体の大きな種族でも足を伸ばせる深い場所も必要だな」
話しているうちに、職人の顔になっていく。
「休憩場所も広げる。洗い場も増やす。入口も今の倍以上だ」
「もう完全に作る気じゃないか」
ダンが呆れる。
「作らない理由があるのか?」
「ないけどよ……」
ユウは思わず笑った。
最初は、小さな湯船だった。
疲れた身体を休めるためだけに作った場所へ一人、また一人と人が集まり、気づけば種族すら関係なく同じ湯に浸かるようになっている。
なら、その場所をもっと広くするのも悪くない。
「やろうか、ドグラン」
ユウが言うと、ドグランの口元がわずかに上がった。
「最初からそのつもりだ」
「やっぱりもう決めてたんじゃねえか!」
ダンの声が再び浴場に響く。
その翌朝。
やわらぎの湯の裏手では、まだ日が昇りきる前からドグランが地面へ杭を打ち込み始めていた。
そしてその巨大な工事予定地を見たダンが、しばらく言葉を失ったあと、ぽつりと呟く。
「……これ、風呂っていうより施設じゃねえか?」
それが後に、やわらぎの谷を代表する場所の一つとなる巨大大浴場、その始まりだった。




