整ったあとの妥協案
翌日。
やわらぎの湯は、朝からいつもとは少し違う緊張感に包まれていた。普段なら湯気の向こうから聞こえてくるのは客たちの笑い声や桶の音くらいなのだが、今日はこれからアストリア王国と魔王領による正式な会談が行われることになっている。
「……本当にここでやるんだな」
サウナの前で腕を組んだダンが、何度目になるか分からない確認をする。
「会談の通知にもそう書いてあったし、たぶん間違いないと思うよ」
ユウはそう答えながら、いつもと変わらない様子でサウナの中を確認していた。熱した石の状態を確かめ、水を入れた桶を置き、水風呂にも手を入れて温度を見る。その姿は国家間の重要会談を迎える主人というより、少し大事な常連客を迎える湯守にしか見えない。
「お前、もう少し緊張してもいいんじゃねえか?」
「どうして?」
「国王と魔王が領土問題について話し合うんだぞ。下手すりゃ今後の両国の関係が決まる会談だぞ」
「でも、僕が領土について話すわけじゃないし」
「それはそうなんだけどよ……」
ダンが頭を抱えていると、その横ではミナが水風呂へそっと手を入れていた。
「冷たい」
「水風呂だからな」
「うん。ちゃんと冷たい」
「確認ありがとうよ」
ダンが半ば投げやりに答えたところで、谷の入口が騒がしくなった。
やがて現れたのは、昨日のような忍び足の訪問ではなく、正式な使節団だった。
アストリア王国側からはエルグラン国王を筆頭に、数名の護衛と文官が同行している。一方、魔王領からもゼルヴァディスが側近と護衛を連れて現れ、両陣営が顔を合わせた瞬間、それまで穏やかだった空気が目に見えて張り詰めた。
そして会談が始まると、その緊張はさらに強くなった。
「国境東部の三村についてですが、我が国の記録では古くからアストリア王国の領地とされております」
王国側の文官が地図を広げながら説明すると、向かい側に座った魔王領の側近がすぐに反論する。
「こちらには、それ以前から魔王領に属していたという記録が残っている」
「それは二百年以上前の資料でしょう」
「そちらの資料も百年以上前のものではないか」
「ですから共同調査団を派遣し、現地の記録と照合するという案を――」
「その共同調査団の構成が王国側に偏っていると言っている!」
少しずつ声が大きくなっていく。
離れたところで様子を見ていたダンは、隣にいるユウへ顔を寄せた。
「この前みたいに、二人だけで来た時の方が話が早かったんじゃねえか?」
「僕もそんな気がしてきた」
ユウが小さく頷く。
しかも険悪になっているのは文官や側近だけではない。話を聞いていたエルグランとゼルヴァディスも、だんだんと表情が険しくなってきていた。
「そもそも、そちらが譲歩すれば済む話ではないか」
エルグランが言えば、ゼルヴァディスもすぐに言い返す。
「なぜ我らだけが譲らねばならん。そもそも元々は我らの管理下にあった土地だ」
「こちらの記録では王国領となっている」
「その証拠が曖昧だと言っているのだ」
昨日まで何度も繰り返されてきたという不毛な議論に戻りつつある。
ユウはしばらくその様子を眺めたあと、ふと思い出したようにサウナの扉を開いた。
「先に入ります?」
その一言で、全員の視線がユウに集まった。
「……何?」
エルグランが聞き返す。
「昨日、サウナに入ったあとは二人とも話しやすそうだったので、先に入ってから続きを話した方がいいのかなと思って」
ゼルヴァディスが腕を組みながら少し考える。
「一理あるな」
「あるのかよ」
思わずダンが突っ込んだ。
だがエルグランも机の上に広げられた地図と、険しい顔をしている双方の側近たちを見比べたあと、大きく息を吐いた。
「確かに、このまま続けても昨日までと同じことの繰り返しになりそうだ」
「ならば試してみよう」
ゼルヴァディスも頷いたことで、史上初となる国家間会談は、なぜか一度中断してサウナへ移動することになった。
とはいえ、全員が入れるほど広いわけではない。
入ったのはエルグラン、ゼルヴァディス、双方の代表文官が一名ずつ。そしてなぜかダンまで含まれていた。
「……俺も入るのか?」
自分を指差すダンへ、ユウは当然のように答える。
「何かあった時のために」
「何があるんだよ、サウナの中で」
「喧嘩とか」
「それを俺が止めるのか?」
結局、ダンも押し切られる形で入ることになった。
全員が座ったところで、ユウが熱した石へ水をかける。
じゅうううっ、と音が響いた直後、熱い蒸気が一気に室内へ広がり、エルグランとゼルヴァディスがほぼ同時に顔をしかめた。
「……熱いな」
「昨日より熱くなっておらぬか?」
「今日は人数が多いので、少し調整してあります」
「人数が増えると熱くする必要があるのか……?」
エルグランが疑問を口にするが、ユウは特に気にする様子もなく砂時計を確認した。
しばらくの間、誰も何も話さなかった。
先ほどまで激しく意見をぶつけ合っていた者たちも、今はただ流れ落ちる汗を拭いながら熱さに耐えている。
やがて最初に口を開いたのはエルグランだった。
「……東部三村についてだが」
ダンが嫌な予感を覚えて顔をしかめる。
「ここでもその話をするんですか?」
「そのために来たのだから当然であろう」
「そりゃそうですけど……」
エルグランは額から流れる汗を拭いながら、先ほどまでとは違う少し疲れた声で続けた。
「正直に言えば、あの三村の土地そのものには、そこまで大きな価値はない」
その言葉に、王国側の文官が目を見開く。
「陛下?」
「今は黙って聞け」
するとゼルヴァディスも、壁へ背中を預けたまま頷いた。
「我らも似たようなものだ。あの土地を得たところで、魔王領が豊かになるわけではない」
今度は魔王領側の側近が驚いた顔をする。
「魔王様?」
「問題なのは土地ではないのだ」
ゼルヴァディスはゆっくり息を吐く。
「ここで譲れば、こちらが王国に屈したと見られる。それがあるから簡単には引けん」
「同じだな」
エルグランも頷いた。
「こちらも一度強く主張してしまった以上、何の成果もなく引けば国内の貴族たちが騒ぐ。結局、互いに土地ではなく立場を守るために意地を張っていたということか」
「……面倒ですね」
ユウが素直に言う。
「お前、それ国王と魔王に向かって言うことじゃねえぞ」
すぐにダンが突っ込んだが、不思議なことに誰も怒らなかった。
というより、暑さのせいで怒る余裕そのものがなくなっている。
やがて砂時計の砂が落ちきり、ユウが扉を開けた。
「そろそろ水風呂へ行きましょう」
待っていたと言わんばかりに全員が外へ出て、そのまま水風呂へ向かう。
そして次の瞬間。
「冷たっ!」
「ぬおっ!」
昨日とまったく同じ声が二つ並んで響いた。
ダンは思わず吹き出しそうになり、王国と魔王領の文官たちまで肩を震わせている。
十分に身体を冷やしたあとは、外気浴だった。
谷を抜ける涼しい風が火照った身体を撫で、木々の葉が擦れる音が静かに聞こえてくる。遠くからは温泉特有の柔らかな香りが漂い、先ほどまで張り詰めていた空気が嘘のように消えていた。
椅子へ深く腰掛けたエルグランは目を閉じ、しばらく何も言わなかった。
そして唐突に口を開く。
「……もう共同管理でよくないか?」
「うむ」
ゼルヴァディスが即答した。
王国側の文官が勢いよく顔を上げる。
「はい?」
「三村については、王国領とも魔王領とも定めず共同管理区域とする」
「ならば我らも異議はない」
「税はどうなさいます?」
「折半でよかろう」
「警備は?」
「双方から同数を出せばいい」
「住民の移動については?」
「自由でよい」
「関所も不要だな」
「ああ、それでいい」
先ほどまで何度説明しても進まなかった話が、驚くほど簡単に決まっていく。
双方の文官は呆然としていた。
数か月もの間、何度会談してもまとまらなかった問題だった。それがサウナと水風呂を挟んだだけで、ほんの数分で妥協点へ辿り着いている。
「……陛下」
王国側の文官がおそるおそる声をかける。
「何だ?」
「本当に、それでよろしいのですか?」
「何がだ?」
「これまで最も難航していた案件ですが……」
エルグランは少し考え込み、やがて首を傾げた。
「今考えると、なぜあれほど揉めていたのだろうな」
「我にも分からん」
ゼルヴァディスまで同じように首を傾げる。
ダンが思わず身を乗り出した。
「それ、昨日まで絶対に言わなかったやつですよね?」
「そうだったか?」
「そうですよ!」
しかし一つ解決すると、他の問題も次々に話が進んだ。
河川の利用権、国境街道の通行税、国境周辺に現れる魔物の討伐区域など、長年積み重なっていた議題が順番に持ち出されていく。
「川は共同利用でよかろう」
「異議なし」
「通行税は現状では商人への負担が大きいな」
「ならば半分にする」
「それならこちらも同額まで下げよう」
「魔物の討伐区域については?」
「強い方が倒せばよい」
ゼルヴァディスの一言に、ダンがすぐさま口を挟む。
「そこだけ急に雑じゃありません?」
「では合同討伐隊を作るか」
「それなら構わん」
「結局まとまるのかよ!」
気づけば、何か月も積み上がっていた懸案の大半に妥協案ができていた。
最後に双方の文官が内容を書面へまとめ、エルグランとゼルヴァディスが一つずつ確認していく。
「これでよいな」
「ああ、問題ない」
二人がそれぞれ署名を終えたことで、正式会談は終了した。
ダンはしばらく書面と二人の顔を見比べたあと、力なく空を見上げる。
「……早すぎるだろ」
「いいことじゃない?」
隣でユウが笑う。
「まあ、そりゃそうなんだけどよ。今までの何か月は何だったんだって話になるだろ」
そこへ椅子から立ち上がったエルグランが、ユウへ声をかけた。
「ユウ」
「はい?」
「次回の会談でも、ここを借りたい」
その言葉に、ゼルヴァディスもすぐ頷く。
「我も賛成だ。少なくとも城の会議室で向かい合うより話が早い」
ダンの顔が引きつった。
「まさか……」
エルグランは満足そうにサウナの建物を見る。
「今後、重要な会談はまずサウナに入ってから行うことにしよう」
「正式採用すんな!」
ダンの声が谷いっぱいに響いた。
こうしてアストリア王国と魔王領の長年の懸案だった領土問題は、王城の立派な会議室でも、魔王城の重厚な謁見の間でもなく、やわらぎの湯のサウナと水風呂、そして谷の風を受けながらの外気浴によって、驚くほどあっさりと妥協案へ辿り着いた。
そしてこの日を境に、両国の間では冗談とも本気ともつかない一つの言葉が使われ始めることになる。
話がまとまらないなら、まずはやわらぎの湯へ行け、と。
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