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異世界温泉宿 ~使えないスキルと言われた俺、秘境の谷で温泉を作ったら人も魔物も通う場所になった~  作者: 堺久遠


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味覚の戻った料理人

巨大大浴場の拡張工事が始まってから、数日が経った。


朝から温泉街には石を削る音や木材を運ぶ声が響き、ドグランを中心にした職人たちが忙しく動き回っている。


そんな工事の音に混じって、食堂の方からはいつもより濃い料理の香りが漂ってきていた。


「……いい匂いだな」


作業を手伝っていたダンが、運んでいた木材を地面へ置いて顔を上げる。


肉を煮込んだ香り。


野菜の甘い匂い。


それに、何種類もの香草や香辛料が混ざった食欲を刺激する香りが、風に乗って温泉街まで流れてきている。


ちょうどそこへユウもやってきた。


「食堂からだね」


「それは分かる。問題は朝から腹が減るくらい美味そうってことだ」


ダンは鼻を動かしながら食堂を見る。


「レイン、何作ってるんだ?」


「朝からずっと厨房にいるよ」


「また新しいまんじゅうじゃないだろうな」


「今日は違うみたい」


二人が食堂へ向かうと、中ではレインが大きな鍋の前に立っていた。


いつもなら黙々と料理を作っているだけなのだが、今日は少し様子が違う。


小皿に汁を取り、一口飲む。


少し考えてから塩をほんの少し加え、もう一度味を見る。


また一口。


今度は香草を少量。


その様子を見たユウが足を止めた。


「レイン?」


レインが振り返る。


「……ちょうどいい」


「何が?」


「味だ」


短い返事だった。


だが、ユウはすぐに意味を理解した。


「もしかして……」


レインは少し黙ったあと、静かに頷く。


「戻った」


ダンが首を傾げた。


「何が?」


「味覚」


「……完全に?」


「ああ」


レインはもう一度鍋の汁を口に含む。


以前とは違う。


塩味も分かる。


肉から出た旨味も、野菜の甘さも、香草の香りも分かる。


甘い。


辛い。


苦い。


酸っぱい。


それぞれが混ざり合い、料理の中でどう変わっているのかまで、はっきり感じられるようになっていた。


「いつから?」


ユウが聞く。


「少し前から戻り始めていた」


温泉へ入るようになってから、レインの味覚は少しずつ改善していた。


最初は濃い味なら何となく分かる程度だった。


それが次第に細かな違いまで感じられるようになり、昨日の夜、試しに作ったスープを飲んだ時にようやく確信したらしい。


「全部、分かる」


そう言ったレインの表情はいつもとほとんど変わらない。


けれど、ユウには少しだけ嬉しそうに見えた。


「よかったね」


「……ああ」


ダンも笑う。


「そりゃめでたいな」


するとレインは大鍋へ視線を戻した。


「だから作った」


「何を?」


ダンが覗き込む。


鍋の中では大きく切られた肉や野菜、きのこがぐつぐつと煮えている。


白い湯気と一緒に、複雑な香りが立ち上っていた。


「世話になった礼だ」


レインはそれだけ言う。


ユウが少し目を丸くする。


「僕たちに?」


「ここに来てから、色々あった」


温泉。


食堂。


新しい食材。


そして料理を食べてくれる客たち。


味覚が戻っていなかった頃でも、レインは料理を作り続けていた。


周囲の反応を見ながら味を調整し、少しでも美味しいものを出そうとしていた。


それでも、自分自身で味を確かめられないことが悔しくないはずはなかった。


「だから今日は、自分で全部味を決めた」


レインが鍋を見る。


「特製やわらぎ鍋だ」


ダンが眉を上げる。


「名前まで付けたのか?」


「カヤが付けた」


「ああ、なるほど」


妙に納得した。


ちょうどその時、食堂の奥からカヤが顔を出す。


「何その反応!」


「聞こえてたのかよ」


「近いもん!」


カヤは鍋を覗き込みながら嬉しそうに尻尾を揺らした。


「今日のお昼から出すんだよ!」


「まだ朝だろ」


「味見する?」


「する」


ダンの返事だけは早かった。




昼になる頃には、食堂の入口に小さな看板が出されていた。


『本日限定 特製やわらぎ鍋』


その文字を見た宿泊客たちが次々と食堂へ入ってくる。


鍋は大きな器に取り分けられ、客の前へ運ばれていった。


最初の一口を食べた冒険者が目を見開く。


「……なんだ、これ」


一緒にいた仲間が不安そうに見る。


「不味いのか?」


「逆だ」


もう一口。


「めちゃくちゃ美味い」


その声をきっかけに、周囲でも次々と反応が上がった。


肉は柔らかく、噛めば旨味が広がる。


根菜には汁がしっかり染み込み、きのこの香りと香草の風味が後から追いかけてくる。


味は濃すぎない。


温泉上がりでも食べやすいのに、しっかりと満足感があった。


ダンも大きな器を前にして黙々と食べていた。


「……美味いな」


隣でユウが笑う。


「何杯目?」


「二杯目」


「早くない?」


「これは仕方ない」


少し離れた席ではミナも黙々と食べている。


「おかわり」


「もう三杯目だよ」


カヤが言う。


ミナは空になった器を見る。


「まだ食べられる」


「知ってる!」


厨房ではレインが次々と鍋をよそっていた。


客から「美味い」という声が上がるたび、ほんの少しだけ表情が緩んでいる。


それを見ていたダンが小さく笑った。


「本人が一番嬉しそうじゃねぇか」


「そうだね」


ユウも頷く。


味覚が戻ったこと。


もう一度、自分の舌で味を確かめながら料理を作れること。


そして、その料理を誰かが美味しいと言ってくれること。


レインにとっては、それだけで十分なのだろう。


◇


問題が起きたのは、その日の午後だった。


「……入れない」


食堂の入口で、カヤが困った顔をしている。


外にはまだ十数人の客が並んでいた。


店内は満席。


料理を運ぶ者も足りず、レインは厨房からほとんど出てこられない。


特製やわらぎ鍋の評判を聞いた客が次々と集まり、完全に食堂の広さを超えていた。


ダンが列を見る。


「これ、今日だけの話じゃないだろ」


「たぶんね」


ユウも食堂の中を見る。


温泉街そのものの客が増えている。


温泉手形。


効能特化湯。


ぬる湯。


温泉まんじゅう。


さらに巨大大浴場の拡張まで始まった。


当然、食堂を利用する客も以前とは比べものにならないほど増えている。


そこへ今回のやわらぎ鍋だった。


「今までレイン一人でよく回してたな」


ダンが呆れたように言う。


「さすがに限界かも」


そこへ厨房からレインが出てきた。


「限界だ」


「本人が言った」


カヤが目を丸くする。


レインは客席を見回した。


「厨房が狭い。鍋を増やせない」


「そっち?」


ダンが聞き返す。


「人も足りない」


「ちゃんと分かってたか」


レインは真面目な顔で続ける。


「今の人数ならまだ何とかなる。だが大浴場が完成したら客はもっと増える」


ちょうどその時、工事の様子を見に来ていたドグランが食堂へ入ってきた。


列を見て、満席の店内を見てから一言。


「狭いな」


「やっぱり?」


ユウが聞く。


「ああ。広げる」


「即決かよ」


ダンが笑う。


ドグランは食堂の裏手へ目を向けた。


「厨房を広げて、客席も増やす。裏の空き地を使えば今の倍近くにはできる」


カヤの目が輝く。


「じゃあ大きい食堂になる?」


「その前に働く奴を増やせ」


ドグランが言う。


全員の視線がレインへ向く。


レインは少し考えてから頷いた。


「必要だな」


料理人。


配膳をする者。


皿を洗う者。


食材を管理する者。


今までは皆で手伝いながら何とかしてきたが、これから先も客が増えるなら、それだけでは追いつかない。


「料理人も増やす?」


ユウが聞く。


レインは一瞬だけ黙った。


「増やす」


少し前のレインなら、自分の厨房に他の料理人が入ることを嫌がったかもしれない。


だが今は違った。


「教えればいい」


短い言葉だった。


それでもユウは笑った。


「じゃあ募集しよう」


「私、看板出す!」


カヤが手を挙げる。


ダンが警戒する。


「変なこと書くなよ」


「書かないよ!」


翌朝。


食堂の前には新しい木札が置かれていた。


『料理人・食堂スタッフ募集!』


そこまでは普通だった。


その下に小さく、


『まかない付き! 温泉にも入れます!』


と書かれている。


ダンがしばらく見つめる。


「……これ書いたのお前だろ」


「分かりやすいでしょ?」


カヤが胸を張る。


「まあ、間違ってはいないけどな」


食堂の中からは、今日も鍋のいい香りが漂ってくる。


味覚を取り戻した料理人が感謝を込めて作った一つの鍋は、新しい名物になりそうな勢いで評判になる。


それと同時に食堂そのものを変えるきっかけにもなっていた。


やわらぎの谷が大きくなれば、温泉だけではなく、そこで働く人も暮らす人も増えていく。


そしてレインの厨房もまた、新しい仲間を迎えるために少しずつ広がろうとしていた。

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