巨大大浴場の増築
大浴場をさらに広げようとドグランが提案してから、数日が経った。
朝のやわらぎの谷には、いつもの温泉街とは少し違う音が響いている。
石を削る音。
木材を運ぶ声。
地面を掘り返す音。
その中心では、ドグランが大きな図面を片手に作業を見ていた。
「そこはもう少し外へ広げろ。大型の獣人が何人か入った程度で狭くなるようじゃ意味がない」
「この辺までですか?」
「もう半歩だ。それから縁の高さも揃えろ」
作業をしていた男たちが返事をし、再び石材を運び始める。
少し離れた場所でその様子を見ていたダンは、掘り広げられた浴槽を眺めながら腕を組んだ。
「……やっぱりでかくないか?」
「大浴場だからね」
隣にいたユウが答える。
「いや、大浴場にも限度ってもんがあるだろ」
今でも、やわらぎの谷には十分な広さの大浴場がある。
もともとは地下遺跡の機能を使って作られたもので、浴槽の基礎から水路まで、かなりの部分を遺跡の力に助けられていた。
最初の頃なら、それで困ることはなかった。
だが今は違う。
谷を訪れる客は日に日に増え、人間だけでなく獣人やエルフ、魔族、それに精霊まで温泉を利用するようになっている。
身体の大きさも違えば、入りやすい深さや好みの温度も違う。
そこでドグランが言い出した。
どうせなら最初から、もっと多くの種族が一緒に入れる大浴場へ作り直せばいい、と。
「前の大浴場は地下遺跡がかなり作ってくれたようなものだったけど、今回は本当に一から広げるんだな」
ダンが言う。
「全部一からじゃないよ。今ある水路や基礎は使えるから」
ユウが答えると、近くまで来ていたドグランが鼻を鳴らした。
「使えるものを捨てる必要はない。だが、客が増えたのに昔の広さのままで十分だと思うほど俺は雑じゃない」
「誰も雑とは言ってねぇよ」
「顔に書いてある」
「書いてねぇ」
ドグランは気にした様子もなく図面を広げた。
「今の浴場は、人間の身体を基準にしすぎている」
「人間基準?」
カヤが横から覗き込む。
「ああ。例えば大型の獣人が何人か入れば、それだけで場所を取る。翼を持つ種族なら背中を壁へ預けにくいし、尻尾のある奴は後ろを気にするだろ」
カヤが自分の尻尾を見る。
「確かに混んでる時は、踏まれないように気をつけるかも」
「だろう?」
ドグランは図面の中央を指した。
「だから浴槽そのものを広くする。それと、全部を同じ深さにはしない」
ダンが図面を覗き込む。
「深さも変えるのか?」
「子供や小柄な種族と、大型の種族が同じ深さで楽に入れるわけがないだろ」
浅い場所。
普通の深さ。
そして身体の大きな種族でも肩まで浸かれる深い場所。
一つの大きな浴槽の中で、場所によって深さを変えるつもりらしい。
さらに、身体の大きな者でもゆったり座れるように岩の配置も変え、背中や翼が当たりにくい場所も作るという。
ダンは感心したように頷いた。
「そこまで考えてたのか」
ドグランの眉がぴくりと動く。
「当然だ。風呂を作るなら、入る奴のことを考えるのが先だろう」
ユウが少し笑う。
ドグランは昔からそうだった。
ユウが最初に温泉を作り始めた頃から、その仕組みや水路を興味深そうに眺め、必要な場所には手を貸してくれていた。
温泉そのものを珍しがるだけではなく、どうすればもっと使いやすくなるのかを職人の目で考えていたのだ。
今では、ユウが新しい湯を思いつく前にドグランの方から改良案を持ってくることさえある。
「ここは何?」
カヤが図面の端を指さす。
「そこは少し温度を低くする場所だ」
「ぬる湯みたいに?」
「考え方は近い」
氷精霊のために作ったぬる湯が、老人や子供にも好評だったことをドグランはしっかり見ていた。
だから今回の巨大大浴場では、浴槽全体を一つの温度にするのではなく、湯の流れを工夫して場所によって少しずつ温度が変わるようにするつもりだった。
熱い湯が好きな者。
ぬるめの湯へ長く入りたい者。
身体の大きな者。
小さな者。
なるべく同じ場所で、それぞれが無理なく過ごせるようにする。
「それで混浴なんだよね?」
カヤが聞く。
「ああ」
ドグランは迷いなく頷いた。
「せっかく広くするなら、種族ごとに細かく分ける必要はない」
ダンが少し考える。
「でも、人間だと男女で分かれた方がいいって奴もいるぞ」
「もちろん、嫌な奴まで無理に入れとは言わん」
ドグランは図面の別の場所を指した。
巨大大浴場とは別に、壁や仕切りを使える小さめの浴槽も残す予定になっている。
大勢で入るのが好きなら巨大大浴場。
静かに入りたいなら別の浴場。
「大事なのは、選べるようにしておくことだ」
ドグランが言う。
ユウが頷いた。
「それがいいと思う」
「お前の温泉を見てりゃ分かる」
ドグランは図面を閉じながら続ける。
「熱い湯が苦手ならぬる湯へ行けばいい。身体が疲れてるなら身体に合った湯へ行けばいい。全部を一つに合わせようとするから無理が出る」
「ずいぶん研究してるな」
ダンが笑う。
「最初からだろ」
ユウが答える。
「僕が最初に湯を引いた時から、ドグランは水路とか浴槽の作りをずっと見てたし」
「そういやそうだったな」
ダンも思い出したように頷く。
「ユウが風呂増やすたびに、誰より真面目な顔で石組み見てたな」
ドグランが腕を組む。
「面白いものを作ってるなら、見るのは当然だ」
「やっぱり職人だな」
「当たり前だ」
その返事には、少しだけ誇らしげな響きがあった。
その時、作業場の方から声が飛んでくる。
「ドグラン! ここの水路、これで合ってるか?」
「今行く!」
ドグランはすぐにそちらへ向かっていった。
その背中を見送りながら、ダンが笑う。
「今じゃ完全に共同制作者だな」
「助かってるよ」
「だろうな。ユウだけだったら、また思いつきで風呂増やしてそうだし」
「そんなに増やしてないよ」
ダンは黙ってユウを見る。
ユウも黙る。
少し離れたところには、美肌や毛並みを整える湯、身体を休める湯、魔力の巡りを整える湯、それに氷精霊から始まったぬる湯まで並んでいる。
「……増えてるな」
「増えてるだろ」
工事はその日も続いた。
地下遺跡から伸びる既存の水路を確認し、新しく広げた浴槽へ湯を流せるように繋ぎ直していく。
大きな岩の配置はドグラン自身が何度も確認した。
「そこは角をもう少し削れ」
「これくらい?」
「まだ硬い。長く座ったら背中が痛くなる」
近くで石材を運んでいたダンが吹き出す。
「そこまで気にするのかよ」
ドグランが当然のように答える。
「風呂は休む場所だろうが」
「それはそうだけどな」
カヤは浴場の周囲に植える花を選び、ミナは完成前の浴槽へ入ろうとして何度も止められていた。
「まだ湯入ってないぞ」
「広さを見る」
「中から見る必要あるか?」
「ある」
「あるのかよ……」
リーフェは魔力の流れを確認し、ユウは源泉から引く湯量を調整する。
以前の大浴場なら、地下遺跡の機能を使うことで短い時間でも形になった。
だが今回は違う。
石を運ぶ者がいる。
浴槽を掘る者がいる。
図面を引く者がいる。
湯の流れを考える者がいる。
それぞれが少しずつ手を加えながら、一つの大きな浴場を作っていく。
夕方になり、作業が一段落した頃。
ダンはまだ空のままの巨大な浴槽の縁へ腰を下ろした。
「しかし、本当にでかいな」
隣に座ったユウも中を見回す。
「何人くらい入れるんだろう」
「五十人程度なら余裕だ」
後ろからドグランの声がした。
ダンが振り返る。
「五十人?」
「大型の種族が少なければ、もう少し入れる」
「それ、風呂の人数じゃねぇだろ」
「だから巨大大浴場なんだ」
「そのまんまだな」
ドグランはそんなダンを無視して、まだ完成していない浴槽を見渡した。
「これから先、この谷にはもっと色んな奴が来る」
人間も、獣人も、エルフも、魔族も。
最近では精霊まで温泉へ入るようになった。
これまでなら同じ場所で暮らすことさえ珍しかった者たちが、ここでは同じ湯へ入り、同じ露店で食べ、同じ場所で笑っている。
「だったら風呂も、最初から色んな奴が入れるようにしておけばいい」
ユウはその言葉を聞き、小さく笑った。
「うん」
夕暮れに染まった空の下、まだ空っぽの巨大な浴槽が広がっている。
完成すれば、そこにはたっぷりと温泉が満たされる。
そしてきっと、身体の大きさも種族も違う客たちが、同じ白い湯気の中で肩を並べることになる。
以前は地下遺跡の力によって形になった大浴場。
今度はユウとドグラン、それに谷で暮らす者たちの手で、さらに使いやすい場所へと作り変えられようとしていた。
「よし」
ドグランが立ち上がる。
「明日も朝から続きをやるぞ」
ダンが嫌そうな顔をする。
「俺も?」
「当然だ」
「俺、冒険者なんだけど」
「大剣を振れるなら石くらい運べる」
「だから使う筋肉が違うだろ!」
夕暮れの温泉街に、ダンの声が大きく響いた。
巨大大浴場の完成までは、もう少しだけ時間がかかりそうだった。
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