氷精霊の適温風呂
上級氷精霊のコルが初めて温泉へ入った翌朝。
やわらぎの湯の一角では、昨日の名残がまだしっかりと残っていた。
「……凍ってるな」
露天風呂の前に立ったダンが、腕を組みながら浴槽を見つめる。
半分ほどは普通の温泉だが、残り半分には薄い氷が張り、岩の縁には白い霜まで残っている。
昨日、コルが気持ちよくなって力を抜いた結果だった。
「見事に残ったな……」
ダンが呟く。
その少し離れた場所では、原因となったコルが申し訳なさそうに立っていた。
淡い水色の長い髪に、透き通るような青い瞳。
そして今日も、寒そうに自分の肩を抱いている。
「……寒い」
ダンはコルと、その足元から広がっている霜を交互に見る。
「やっぱり納得できねぇな」
「何が?」
近くにいたカヤが首を傾げた。
「なんで周りを凍らせてる本人が、一番寒そうなんだよ」
「冷え性だから?」
「それで全部説明していいのか?」
ミナもコルの隣に立ち、小さく頷く。
「寒そう」
「見りゃ分かる」
昨日、コルは生まれて初めて温泉へ入った。
長い間ずっと温かい場所に憧れていたこともあり、本人はかなり気に入ったらしい。
ただ一つ問題があった。
気持ちよくなって力が抜けるほど、無意識に漏れる冷気まで強くなってしまうのだ。
その結果、浴槽の半分が凍った。
コルは凍った湯を見つめてから、おそるおそるユウへ顔を向ける。
「今日も……入れる?」
「もちろん」
ユウが迷わず答えた。
ダンはすぐにため息を吐く。
「だから返事が軽いんだよ、お前は」
「でも入りたいんでしょ?」
「……入りたい」
コルが小さく頷く。
「じゃあ考えればいいよ」
そう答えたユウは、すでに浴槽の横へしゃがみ込んでいた。
昨日と同じ方法では、また浴槽を凍らせるだけだろう。
ユウは水路と源泉を交互に確認しながら、しばらく考え込む。
「昨日は熱い湯をどんどん入れたんだよな?」
ダンが聞く。
「うん。でも、それが逆に良くなかったみたい」
「もっと熱くするんじゃないの?」
カヤが不思議そうに聞く。
ユウは首を横に振った。
「今日は少しぬるくしてみる」
「ぬるく?」
ダンが眉を寄せる。
「コル、冷え性なんだろ。だったら熱い方がいいんじゃねぇのか?」
「僕も昨日はそう思ったんだけどね」
ユウは凍った浴槽へ手を入れながら説明する。
熱い湯に強い冷気を持つ氷精霊が入ると、その周囲だけ急激に熱を奪われる。
そこへ源泉から熱い湯を送り続ければ、今度は一気に温度が上がる。
熱くなり、冷たくなり、また熱くなる。
昨日はその繰り返しで湯温が安定せず、コル自身の魔力まで乱れていたらしい。
リーフェも浴槽へ手を入れ、昨日の状態を思い出すように頷く。
「確かに、温度差が大きくなるたびに魔力の流れも不安定になっていたわね」
「だから今日は、最初から温度差を小さくする」
「なるほどな」
ダンは一度頷きかけたものの、途中で止まった。
「……いや、なんでそんな普通に温泉屋みたいなことしてるんだ?」
ユウが不思議そうに見る。
「温泉屋でしょ?」
「そうだった」
最近は精霊が来たり、効能ごとの湯が増えたり、温泉まんじゅうが大騒ぎになったりしていたせいで、基本的なことを忘れそうになっていた。
ユウは水路の調整を始める。
源泉から流れてくる熱い湯に、別の水路から少し温度の低い水を混ぜる。
さらに【水質変化】を使い、水温と水流、それにコルの魔力と馴染みやすい状態へ少しずつ整えていく。
しばらくしてから、ユウはコルを振り返った。
「コル、入ってみて」
「……うん」
コルがゆっくりと浴槽へ近づく。
歩くたびに足元へ霜が広がった。
やがて片足を湯へ入れる。
ぱき、と小さな音がした。
薄い氷が一枚だけ浮かぶ。
ダンが思わず身構えた。
しかし、その氷はそれ以上広がらなかった。
「お?」
コルも驚いたように湯を見る。
もう片方の足を入れ、ゆっくりと腰まで身体を沈める。
まだ凍らない。
そのまま肩まで入る。
白い湯気が水色の髪を包んだ。
「どう?」
ユウが聞く。
コルはしばらく何も言わなかった。
ダンが少し心配そうに覗き込む。
「……駄目か?」
やがてコルがゆっくり顔を上げる。
「……ぬるい」
ダンの肩が落ちた。
「駄目じゃねぇか」
「でも」
コルは湯の中で両膝を抱える。
「寒くない」
その言葉に、ダンがもう一度浴槽を見る。
昨日のような氷は張っていない。
岩に霜が広がる様子もない。
湯面からは、ただ静かに白い湯気が立ち上っていた。
「……成功?」
カヤが嬉しそうに聞く。
「まだ少しだけ調整してみる」
ユウは浴槽へ手を入れ、水温をほんの少し上げる。
コルの顔を見る。
特に変化はない。
もう少しだけ上げる。
「どう?」
コルは目を閉じた。
しばらく湯の温かさを確かめるようにしてから、小さく答える。
「……あったかい」
「じゃあ、ここかな」
ユウはそこで調整を止めた。
人間が入れば、かなりぬるいと感じるくらいの温度だ。
けれどコルにとっては、それがちょうどいい。
熱すぎず、冷たくもなく、身体から漏れる冷気も暴れない。
コルは肩まで深く沈み、気持ちよさそうに息を吐いた。
「……ちょうどいい」
昨日は温泉へ入るだけで浴槽の周囲が凍っていた。
それが今日は何も起きない。
カヤが嬉しそうに笑う。
「よかったね、コル!」
ミナも浴槽の横へしゃがみ込んだ。
「温かい?」
「うん」
「よかった」
コルの口元がほんの少しだけ緩む。
「これなら……ずっと入れる」
「ずっとは駄目だよ」
ユウがすぐに答えた。
コルが目を開く。
「……どうして?」
「のぼせるかもしれないから」
ダンが思わず聞き返す。
「氷精霊が?」
「分からないけど」
「そこは分からねぇのかよ」
リーフェが少し笑った。
「前例がないもの。試すなら少しずつね」
「そりゃそうか……」
それからしばらくすると、コルはすっかりくつろぎ始めた。
浴槽の縁へ背中を預け、目を閉じる。
昨日とは違い、周囲には氷も霜もない。
あるのは静かに立ち上る白い湯気だけだった。
「……出たくない」
小さな声が聞こえる。
リーフェが頷く。
「その気持ちは分かるわ」
「お前まで入るなよ」
ダンが警戒するように言う。
「温度を確認するだけよ」
「昨日も似たようなこと言って長湯してただろ」
リーフェは聞こえなかったふりをした。
その日の午後、
新しく調整された浴槽の前には、ドノバンが作った小さな木札が置かれていた。
そこには分かりやすく、
『ぬる湯』
と書かれている。
ダンは木札をしばらく眺めた。
「……普通だな」
「分かりやすい方がいいかなと思って」
ユウが答える。
「まあ、変な名前をつけられるよりはいいか」
ダンが何気なく呟いた瞬間。
「聞こえたよ!」
遠くの露店街からカヤの声が飛んできた。
ちょうど温泉まんじゅうを売っている時間らしい。
ダンはしばらく露店街の方を見たあと、何も聞こえなかったふりをした。
翌日。
ダンがぬる湯の前を通りかかると、思わず足を止めた。
「……なんで増えてるんだ?」
浴槽にいるのはコルだけではなかった。
熱い風呂が苦手だという老人が気持ちよさそうに肩まで浸かり、その隣では小さな獣人の子供が母親と一緒に湯を楽しんでいる。
少し離れたところには、長湯したいというエルフまでいた。
「これ、コル用だったよな?」
「最初はね」
ユウが笑う。
「でも、この温度がちょうどいい人って他にもいたみたい」
人によって、ちょうどいい温度は違う。
熱い湯が好きな者もいれば、ゆっくり長く入りたい者もいる。
誰か一人のために調整した湯が、思いがけず別の誰かにも合っていたらしい。
浴槽の奥では、コルが昨日と同じ場所へ肩まで沈んでいた。
「……最高」
すっかり常連の顔だった。
ダンはその姿を見て、頭を掻きながら笑う。
「また一個、風呂が増えたな」
「増えたね」
「これ以上増やしたら、俺でも全部覚えられなくなるぞ」
「温泉手形があるから大丈夫じゃない?」
「そういう問題じゃねぇよ」
白い湯気の向こうでは、老人も子供もエルフもコルも、それぞれ気持ちよさそうに湯へ浸かっている。
上級氷精霊コルが安心して入れるように作った小さなぬる湯は、いつの間にか別の誰かにとってもちょうどいい居場所になっていた。
やわらぎの谷には、今日もまた一つ、新しい温泉の楽しみ方が増えたのだった。
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