冷え性に悩む極上の氷
温泉水を使った特製まんじゅうが新しい名物として定着し始めてから、数日が経った。
朝のやわらぎの谷には、今日もいくつもの浴場から白い湯気が立ち上っている。
露店街ではカヤが早くも温泉まんじゅうを売り始め、レインは追加分の仕込みに追われ、温泉手形を持った宿泊客たちは朝風呂を楽しむためにそれぞれの浴場へ向かっていた。
そんな、いつもと変わらない朝のはずだった。
「……寒い」
やわらぎの湯の露天風呂で、肩まで湯に浸かっていたダンが眉を寄せる。
湯温はいつも通りで、白い湯気もしっかり立ち上っている。それなのに、なぜか顔に触れる空気だけが妙に冷たかった。
「気のせいか?」
そう呟いて息を吐くと、ほんの少し白く見える。
ダンはしばらく黙っていたが、やがて肩まで深く湯へ沈んだ。
「いや、絶対寒いだろ」
その時だった。
ぱき、と小さな音が聞こえた。
「……ん?」
音のした方を見る。
浴槽の端に、うっすらと氷が張っていた。
温泉の表面に浮かんだ薄い氷は、少しずつ周囲へ広がっている。
ダンは数秒ほどそれを見つめた。
「……温泉が凍ってるんだが?」
その直後。
「ユウー!」
露天風呂の外から、カヤの大きな声が聞こえてきた。
「大変!」
黒い猫耳をぴんと立てたカヤが走ってくる。その後ろにはミナがいて、さらに見覚えのない少女が静かについてきていた。
淡い水色の長い髪に、透き通るような白い肌。
身につけている衣装も薄い氷を重ねたような見た目で、青く澄んだ瞳の周囲には細かな氷の粒が漂っている。
それだけなら神秘的な少女で済んだのだが、彼女が歩くたびに足元へ白い霜が広がっていた。
ダンは少女を見て、すぐに納得する。
「……氷系だな」
すると少女は、寒そうに自分の肩を抱いた。
「さ、寒い……」
「お前が?」
思わず聞き返す。
少女はこくりと頷いた。
「寒い」
「いや待て」
ダンがその足元を見る。
草にも岩にも、近くの木の葉にまで薄い霜が降りている。
どう考えても寒さの原因は少女の方だった。
「どう見ても寒くしてる側だろ」
「そんな言い方しないの!」
カヤが少女の肩を抱こうとして手を伸ばした。
肩に手が触れた直後、
「つめたっ!」
慌てて飛び退く。
「何これ! 本当に冷たい!」
「触ると危ないわよ」
後ろからやってきたリーフェが、少女を見るなり少し表情を変えた。
「上級氷精霊ね」
「上級?」
ダンが聞き返す。
「ええ。この辺りで普通に会うような精霊じゃないわ。かなり強い力を持ってる」
ダンは改めて少女を見る。
かなり強い精霊らしい。
その本人は今も小さく震えている。
「強いのに冷え性なのか?」
「……冷え性」
少女が小さな声で答える。
ダンは頭を掻いた。
「世界って広いな……」
そこへ、騒ぎを聞きつけたユウもやってきた。
「どうしたの?」
「この子、温泉に入りたいんだって」
カヤが少女を振り返る。
「冷え性だから」
ユウが少女を見ると、彼女は露天風呂をじっと見つめていた。
湯気の立つ温泉を見る目は、どこか羨ましそうだった。
「……入りたい」
「いいよ」
ユウがすぐに答える。
ダンが思わず振り返った。
「軽いな!」
「駄目なの?」
「いや、その前にこれを見ろ」
ダンが浴槽の端を指さした。
また、ぱき、と音がして氷が広がる。
少女が近くにいるだけで、少しずつ湯温まで下がっていた。
「このまま入ったら全部凍るだろ」
「たぶん」
「たぶんじゃねぇよ」
その言葉を聞いた少女の表情が少し曇った。
「……やっぱり、無理?」
思っていたよりも小さな声だった。
ユウは首を横に振る。
「まだ分からないよ」
「でも、凍る」
「だったら凍らないようにすればいい」
それを聞いたダンが嫌そうな顔をする。
「お前がそう言う時、大体何か始まるんだよな」
ユウは気にせず浴槽の前へしゃがみ込み、手を湯へ入れた。
【水質変化】
湯温、水流、それに湯へ馴染んでいる魔力の巡りを確かめながら、少しずつ状態を調整していく。
だが少女が一歩近づいただけで、浴槽の端から再び氷が張り始めた。
「凍ってるぞ」
「うん」
「大丈夫か?」
「たぶん」
「その返事、さっきも聞いたぞ」
その横では、リーフェが少女の周囲に漂う魔力をじっと観察していた。
「原因は本人の魔力ね」
「止められないの?」
カヤが聞く。
少女は首を横に振った。
「寝てても出る」
「ずっとか?」
ダンが聞くと、少女は小さく頷く。
「昔から……止められない」
少し間を置いてから、少女は自分の胸元へ手を当てた。
「……コル」
「ん?」
ユウが顔を上げる。
少女はもう一度、今度は少しだけはっきりした声で言った。
「私、コル」
「ああ、名前か」
ダンが納得したように頷く。
少女――コルはこくりと首を縦に振った。
「氷の精霊。ずっと北の方にいた」
「俺はユウ」
ユウが笑う。
「こっちはダン。それからカヤ、ミナ、リーフェ」
名前を呼ばれるたびに、それぞれが軽く手を上げたり頷いたりする。
カヤは先ほど触れて冷たさに驚いたことなど忘れたように笑った。
「よろしくね、コル!」
「……よろしく」
ミナも隣で小さく頷く。
「コル。温泉、入ろう」
「入れる?」
「ユウがなんとかする」
あまりにも迷いのない言葉に、ダンが横から口を挟んだ。
「本人以上に信用してるな」
「だってユウだから」
「理由になってるようで、なってねぇぞ」
ユウは苦笑しながら、改めてコルへ向き直る。
「もう少し詳しく聞いてもいい?」
「うん」
火の近くへ行けば、周囲の熱を奪ってしまう。
布団へ入れば冷たくなり、温かい飲み物を持てばすぐに冷める。
温泉に入ろうとしても、自分が近づくだけで湯が冷たくなってしまう。
氷精霊なのだから寒さには強い。
周囲からはずっとそう思われてきた。
けれどコルは、ぽつりと呟いた。
「……ずっと寒い」
その言葉に、さっきまで騒いでいたカヤも黙った。
ミナがコルを見る。
「温泉、入ったことない?」
「……ない」
「じゃあ、入る」
ミナが迷いなく答えた。
ダンが横を見る。
「今、その方法を考えてるところだろ」
「入れるようにする」
「そういう意味か」
ユウが少し笑う。
「うん。やってみよう」
まず、普段より少し熱い湯を別の水路から引く。
ただ温度を上げるだけでは駄目だった。
冷気と熱い湯を正面からぶつけても、コルの周囲だけ急激に温度が変化してしまう。
そこでユウは、コルが入る場所だけ水流を速くし、常に新しい湯が流れ込むように調整した。
さらにリーフェへ顔を向ける。
「冷気が広がりすぎないようにできる?」
「結界である程度なら抑えられるわ」
「お願い」
リーフェが浴槽の周囲へ薄い魔力の膜を張る。
ユウはその内側で湯温と水流を細かく調整した。
しばらくして。
「コル、入ってみて」
名前を呼ばれた少女が、少し驚いたようにユウを見る。
それから小さく頷き、恐る恐る浴槽へ近づいた。
片足を湯へ入れると、ぱき、と薄い氷が浮かんだ。
けれど、次の瞬間には新しく流れ込んできた湯によって溶けていく。
もう一歩。
また薄く凍る。
それもすぐに溶けた。
コルの青い瞳が少し大きくなる。
「……入れる」
ゆっくりと腰まで入り、さらに肩まで身体を沈めていく。
誰も喋らなかった。
白い湯気の中で、コルはしばらく目を閉じている。
そして。
「……あったかい」
小さな声が漏れた。
その声を聞いて、カヤが嬉しそうに笑う。
「よかったね、コル!」
ミナも隣で頷く。
「温泉、いい」
コルは湯の中で小さく頷いた。
「……好き」
ダンもその様子を見て、少しだけ口元を緩める。
「まあ、凍らなきゃな」
その直後だった。
ぱきぱきぱきっ、と大きな音が響き、浴槽の反対側へ一気に氷が広がった。
「おい!」
コルがびくりとする。
「ご、ごめん」
ユウが水路を確認する。
「さっきより冷気が強くなった?」
リーフェが苦笑した。
「安心して力が抜けたせいで、魔力の制御まで緩んだみたいね」
「風呂でくつろぐほど凍るのかよ!」
ダンの声が露天風呂に響いた。
コルは申し訳なさそうに肩を縮める。
それでも、湯から出ようとはしなかった。
むしろ肩まで深く沈み、温かさを逃がさないようにしている。
それを見たカヤが小さく笑った。
「相当気に入ったんだね」
「……出たくない」
「分かる」
ミナがすぐに頷く。
しばらくして、浴槽の半分には普通に湯気が立ち、残り半分には薄い氷が浮かぶという不思議な状態になっていた。
その境目で、コルは幸せそうに目を閉じている。
リーフェもその姿を見ながら少し笑った。
「これなら長年の悩みも、少しはましになりそうね」
ダンは凍った浴槽を眺めながらため息を吐く。
「また常連が増えそうだな」
「……来ても、いい?」
コルが湯船から顔だけを出して尋ねる。
ユウは迷わず頷いた。
「もちろん」
その答えを聞いたコルの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……また来る」
「もう常連になる気満々じゃねぇか」
ダンが笑う。
ユウも同じ場所を見て苦笑した。
「次はコルが安心して入れる浴槽を考えた方がいいかも」
「名前を覚えた途端に専用風呂を作る話になってるぞ」
「必要なら」
「そう言うと思った」
こうしてやわらぎの谷には、上級氷精霊のコルという新しい客が加わった。
温泉を凍らせてしまうほど冷たい力を持ちながら、誰よりも温かさを求めていた少し変わった氷精霊。
そしてこの日を境に、ユウは普通の客だけではなく、コルのような精霊でも安心して入れる温泉について、本格的に考え始めることになるのだった。
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