疲弊した冒険者たち
温泉手形が使われるようになってから、しばらく経った。
最初こそ珍しがって手形を求める客が受付へ集まっていたが、今では使い方もすっかり定着し、木札を手に温泉を巡る姿がやわらぎの谷の日常になりつつある。
浴場ごとに違う印を集める者もいれば、お気に入りの湯だけを何度も利用する者もいる。
ドノバンが作った手形は丈夫で、多少濡れた程度では傷むこともなかった。
そんな日の昼過ぎ。
温泉街の入口近くにいたユウは、谷へ続く道から歩いてくる一団に気づいて顔を上げた。
人数は十人ほど。
その先頭にいる大柄な男を見て、少し目を丸くする。
「ダン?」
「よう。戻ったぞ」
数日前に谷を出たダンが、軽く手を上げながら歩いてくる。
ただし、一人ではなかった。
その後ろには十代後半から二十歳ほどに見える若い冒険者たちが続いている。
装備を見る限り、経験はまだ浅そうだった。
だが、ユウが気になったのはそこではない。
全員がひどく疲れた顔をしていた。
長旅の疲れだけではない。
誰もほとんど喋らず、笑いもせず、足取りまで重い。中には顔を上げることもせず、自分の足元ばかり見て歩いている者までいた。
その時、近くの露店で積まれていた木箱が崩れた。
ガタンッ、と大きな音が響く。
「っ!」
若い冒険者の一人が大きく肩を震わせ、反射的に腰の剣へ手を伸ばした。
周囲を見回し、魔物ではなく木箱が倒れただけだと気づくと、気まずそうに手を離す。
ユウは何も言わずダンを見た。
「……どうしたの?」
「ああ。その話なんだが」
ダンは後ろを振り返った。
「こいつら、数日前に討伐依頼から戻った新人たちだ」
話を聞けば、新人冒険者を中心とした一団で近隣の森へ魔物討伐に向かったらしい。
本来なら、それほど危険な依頼ではなかった。
新人が実戦経験を積むために受けるような内容だったという。
ところが予想以上の数の魔物が現れ、その中に上位種まで混ざっていた。
応援に入った冒険者たちのおかげで死人は出ず、大きな怪我を負った者もいなかった。
だが、問題はその後だった。
「一人は夜中に何度も目を覚ます。一人はまともに飯が食えなくなった。それから何人かは、もう冒険者を辞めるって言い始めてる」
ダンが静かに言う。
新人たちは誰も口を開かない。
一人の青年が、少しだけ俯いた。
「俺がギルドへ戻った時に見かけてな。反省会だの訓練だの言ってたんだが、どう見てもそんな状態じゃなかった」
「それで連れてきたんだ」
「ああ」
ダンは頭を掻く。
「ここなら少しくらい休めるだろ」
ユウは新人たちを見る。
冒険者になる以上、危険があることくらい誰だって知っている。
魔物を倒し、依頼を受け、時には命を懸ける。
けれど頭で理解していることと、実際に目の前で牙をむく魔物を見て、自分が次の瞬間には死ぬかもしれないと感じることはまったく違う。
「別に辞めるなら、それでもいいんだ」
ダンは責めるような口調ではなく、新人たちにも聞かせるように穏やかに続けた。
「冒険者なんて命張ってまで続けなきゃならねぇ仕事じゃない。ただな、疲れ切ってる時に人生決める必要もないだろ」
ユウは少しだけ笑った。
「それで温泉?」
「とりあえず風呂だ」
新人たちがようやく顔を上げる。
「……風呂?」
一人の青年が戸惑いながら口を開いた。
「でもダンさん、俺たち今回の反省をして、もっと訓練しないと」
「しない」
返事は即答だった。
青年が目を瞬く。
「え?」
「今日はしない。剣も振らないし、魔物の話もしない。反省会もなしだ」
「それじゃ強くなれません」
ダンは少し黙ってから、青年の肩へ手を置いた。
「今のお前は、強くなる前に休め」
青年は何も言えなくなる。
「疲れ切った頭で剣を振ったって身につかねぇし、余計な怪我をするだけだ。今日のお前らの仕事は温泉に入って、飯を食って、寝る。それだけだ」
「……それだけ?」
「ああ」
「冒険者なのに?」
「冒険者だって人間だ。たまには何もしなくていい」
誰も反論しなかった。
ユウは受付へ向かい、温泉手形を人数分持って戻ってくる。
「じゃあ、これを使って」
ダンが木札を見て笑う。
「もうすっかり定着してるな」
「ドノバンが追加で作ってくれたからね」
新人たちも少し興味を持ったようで、手形へ視線を向ける。
「これがあれば、いくつかの温泉を回れるよ。全部入る必要はないから、入りたいところだけでいい」
ダンが手形を受け取り、新人たちへ振り返った。
「よし。今日の依頼決定」
「依頼?」
「やわらぎの谷、温泉巡り」
「いや、それ依頼じゃ……」
「報酬は夕飯だ」
一人が思わず吹き出した。
本当に小さな笑いだったが、それにつられるように隣の青年も口元を緩める。
さっきまで誰一人笑っていなかった。
それだけでも、ユウには十分だった。
最初に入ったのは、谷の中央にある大きな露天風呂だった。
一人、また一人と若い冒険者たちが湯へ身体を沈めていく。
最初は誰も喋らなかった。
ただ肩まで湯へ浸かり、白い湯気の中でぼんやりと前を見つめている。
しばらくすると、誰かが深く息を吐いた。
「……はぁ」
その声をきっかけにしたように、別の青年が小さく呟く。
「……あったけぇ」
さらに一人が自分の肩を回しながら、驚いたような顔をした。
「俺、こんなに身体重かったんだな」
戦いが終わってからも、ずっと身体に力が入っていたのだろう。
肩も腕も背中も、自分でも気づかないうちに固くなっていた。
「な?」
湯船の縁へ背中を預けていたダンが笑う。
「風呂はいいだろ」
「ダンさん」
「ん?」
「このままここで暮らしていいですか」
「冒険者辞める理由が変わってるぞ」
「温泉街の住人になります」
「その前に働け」
何人かが一緒に笑った。
先ほど物音だけで剣へ手を伸ばしていた青年も、今は肩まで湯へ沈みながら目を閉じている。
誰も魔物の話をしない。
あの依頼の反省も、これからの訓練についても話さない。
ただ温泉へ入り、くだらない話をして、少し笑う。
それだけの時間が静かに流れていった。
風呂を出る頃には、新人たちの顔色も少しだけ良くなっていた。
そのまま向かったのは食堂だった。
扉を開けると、温泉煮込みと焼いた肉の匂いがふわりと漂ってくる。
「……いい匂い」
一人が小さく呟いた。
厨房ではレインが黙々と料理を盛りつけていた。
温泉煮込みに焼いた肉、野菜、それに焼きたてのパン。
レインは人数分の皿を並べると、新人たちを一度だけ見た。
「無理はするな。食える分だけ食え」
それだけ言うと、また厨房へ戻る。
食欲がないと言っていた青年は、最初こそ料理を前にしたまま動かなかった。
しばらくしてから煮込みを一口だけ口へ運ぶ。
ゆっくり噛む。
もう一口。
さらにもう一口。
気づけば皿の中は空になっていた。
青年は空になった皿をしばらく見つめたあと、おそるおそる厨房へ声をかける。
「……おかわり、いいですか」
レインが振り返る。
空になった皿を見て、静かに頷いた。
「……ああ」
新しい煮込みを盛り、青年の前へ置く。
「食える時に食え」
「……ありがとうございます」
その横から別の新人が手を上げた。
「俺も、いいですか?」
「……ああ」
さらにもう一人が続く。
「肉も追加していいですか?」
レインは無言で皿を受け取り、肉を追加して返した。
それを見ていたダンが笑う。
「お前ら、食欲ないんじゃなかったのか?」
「腹減ったんです」
「知らんわ」
「ダンさんも結構食べてるじゃないですか」
「俺は元から腹減ってるんだよ」
今度は、食堂の中にはっきりとした笑い声が響いた。
レインはその声に一度だけ視線を向けたが、何も言わず、また次の料理を用意している。
ユウはその光景を静かに眺めていた。
温泉へ入ったからといって、全部元通りになるわけではない。
怖かった記憶が一日で消えることもないだろうし、明日になればまた不安になるかもしれない。
それでも今日は食べられた。
そして、笑うこともできた。
今は、それで十分なのかもしれない。
夕方。
休憩所の畳の上では、新人冒険者たちが思い思いの格好で眠っていた。
大の字になっている者もいれば、毛布へくるまっている者もいる。壁にもたれたまま眠っている者や、隣の仲間の腹を枕代わりにしている者までいた。
誰一人として起きる気配はない。
聞こえてくるのは、穏やかな寝息だけだった。
入口に座っていたダンが、その様子を眺めながらぽつりと言う。
「……俺も新人の頃は酷かったんだ」
「そうなの?」
ユウが隣へ座る。
「ああ。初めてゴブリンに囲まれた夜なんて、三日まともに寝られなかった」
今のダンからは少し想像しにくい。
多少の魔物なら笑いながら相手をしそうな男にも、そんな頃があったらしい。
「その時、先輩が酒場に連れていってくれてな。飲んで食って、くだらない話をして、それから言われたんだ」
ダンは眠っている新人たちを見る。
「怖かったなら、今日は休めってな」
ユウも同じように新人たちへ視線を向けた。
「だから連れてきたんだね」
「ああ。今度は俺の番だからな」
外の世界では、冒険者たちは戦わなければならない。
危険な場所へ向かい、魔物を倒し、時には誰かを守るために命を懸ける。
それでも、いつだって強くいられるわけではない。
怖くなることもあれば、疲れ果てることだってある。
そんな時くらい、休んでもいい。
温泉へ入り、温かいものを食べ、眠る。
そしてまた歩きたくなった時に、自分の足で歩き始めればいい。
「また連れてきてもいいか?」
ダンが聞く。
「もちろん」
ユウはすぐに答えた。
「疲れたら、いつでも来ればいいよ」
夕暮れに染まり始めたやわらぎの谷では、いくつもの温泉から今日も白い湯気が立ち上っていた。
戦いから帰ってきた者たちを何も聞かず、ただ静かに迎えるように。
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