温泉手形
朝のやわらぎの谷は、今日も早くから賑わっていた。
山の向こうから朝日が差し込み始めたばかりだというのに、通りにはすでに多くの人が行き交っている。
宿から出てきた冒険者たちは大きく伸びをし、商人たちは露店の準備を始め、朝風呂を目当てに訪れた旅人たちは手ぬぐいを肩に掛けながら、
皆それぞれ目当ての浴場へ向かっていた。
少し前までなら考えられなかった光景だった。
ユウは宿の前に立ち、そんな朝の温泉街を眺める。
「今日も多いね」
「他人事みたいに言うな」
隣でダンが眠そうに欠伸をしながら答えた。
「昨日なんて昼前から受付がとんでもないことになってたんだからな」
「そんなに?」
「そんなにだよ。お前、途中から湯の調整に行っただろ」
ダンが呆れたように言う。
やわらぎの谷を訪れる客は日に日に増えていた。
最初の頃は一つの温泉へ入り、それで満足して帰る者がほとんどだったが、今では事情が違う。
朝はやわらぎの湯、昼は別の効能を持つ湯、夕方にはもう一度お気に入りの浴場へ行く。
そんなふうに一日に何度も温泉を利用する客が珍しくなくなっていた。
そのたびに受付へ並び、料金を支払い、どの浴場へ行くのか確認する。
当然、客が集中する時間帯になると受付の前には長い列ができる。
「昨日なんて途中で財布を宿に忘れたって戻っていった奴もいたぞ」
ダンが言う。
「それは本人の問題じゃない?」
「まあ、それはそうだけどな」
そこへ、朝の仕込みを終えたカヤが宿から顔を出した。
「ユウ、ダン! 朝ごはんできてるよ!」
「その前に受付見てみろ」
ダンが通りの向こうを指さす。
すでに十人ほどが並んでいた。
カヤの猫耳がぴくりと動く。
「朝なのに、もうあんなに?」
「最近ずっとこんな感じだ」
「嬉しいけど大変だね」
三人で列を眺めていると、後ろから低い声が聞こえた。
「何を揃って突っ立ってるんだ?」
振り返ると、ドノバンがいた。
片手には木材を抱え、朝から何かを作っていたらしい。
「ドノバン」
ユウが受付の列を指さす。
「最近、あそこが混むんだよね」
ドノバンは少し目を細めて人の流れを見る。
「温泉に入るたびに金を払うからだろ」
「そうなんだ。何かいい方法ないかなって」
「だったら、先にまとめて払わせりゃいい」
あっさりと答えが返ってきた。
ダンが眉を上げる。
「まとめて?」
「ああ」
ドノバンは抱えていた木材を地面へ置くと、その中から手のひらほどの板を一本取り出した。
「例えば、こんな札を作る」
短剣を取り出し、木の表面へ簡単な線を刻んでいく。
「最初に受付で札を買わせて、風呂に入るたびに印を付ける。五回分なら五つ印が付いたところで終わりだ」
ユウが木札を覗き込む。
「それなら毎回お金を払わなくていいね」
「受付もいちいち銅貨を数えなくて済む」
ダンも納得したように頷いた。
カヤは木札を手に取る。
「これ、持って帰ってもいいの?」
「好きにすりゃいい」
「だったらもっと可愛くしようよ!」
「なんでそうなる」
「せっかくなら記念になる方がいいでしょ?」
ドノバンは面倒そうな顔をしたものの、木札を取り返すと再び短剣を動かした。
しばらくして、表面に湯気を模した簡単な模様が刻まれる。
「これでいいか」
「おお!」
カヤの目が輝いた。
「ドノバン、器用!」
「職人に向かって何を今さら言ってやがる」
そう言いながらも、少しだけ得意そうだった。
ユウが木札を見る。
「名前はどうしよう」
「入浴札でいいだろ」
ダンが言う。
「普通すぎる!」
カヤがすぐに否定する。
「じゃあ湯巡り札!」
「悪くはないな」
「温泉冒険証!」
「なんで冒険になるんだよ」
ダンが呆れる。
しばらく好き勝手に名前を出していると、いつの間にか近くにいたミナが木札を見つめた。
「温泉手形」
全員がミナを見る。
「手形?」
「通る時に見せる札みたいだから」
ミナが淡々と言う。
ユウは少し考えたあと、笑った。
「それ、分かりやすいかも」
「じゃあ決まり!」
カヤがすぐに声を上げた。
ドノバンは肩をすくめる。
「名前なんざ何でもいい。作るならさっさと枚数を決めろ」
こうして、温泉手形が作られることになった。
ドノバンはすぐに作業場へ戻り、手頃な木材を切り揃えていく。
単なる薄い板ではなく、何度使っても割れないよう少し厚みを持たせ、角も丸く削った。
さらに表には「やわらぎの谷」の文字と湯気の模様を刻む。
「ここまでやる必要あるのか?」
作業を覗きに来たダンが聞く。
ドノバンは手を止めない。
「客に持たせる物が半日で割れたら恥だろうが」
「職人だなあ」
「当たり前だ」
浴場ごとに押す印についてもドノバンが木型を作った。
湯気の印、花の印、葉の印など、見ればどの浴場を利用したのか分かるようにしてある。
昼前には試作品が完成した。
受付で料金を先払いし、一枚の温泉手形を受け取る。
温泉へ入るたびに一つ印を押し、すべて使い切ったら新しい手形を買う。
仕組みは単純だった。
「これなら分かりやすい」
ユウが頷く。
「問題は客が使ってくれるかだな」
ダンが腕を組む。
その心配は、ほとんど必要なかった。
販売を始めると、すぐに客たちが興味を示した。
「これ一枚で何回も入れるのか?」
「毎回受付に並ばなくていいんだな?」
「この札、持って帰ってもいいのか?」
次々と声が上がる。
中でも評判が良かったのは、浴場ごとに違う印だった。
「あと二つで全部だ」
「全部集めたら何かあるのか?」
「いや、特にないけど」
受付を手伝っていたカヤが答える。
客は少し残念そうな顔をした。
それを見たカヤが何かを思いつく。
「全部集めたら温泉まんじゅう一個!」
「勝手に景品作るな!」
ダンがすぐに突っ込んだ。
「いいじゃん。一個くらい!」
「お前が売りたいだけだろ」
「違うよ!」
少し間が空く。
「……ちょっとだけ」
「やっぱりじゃねぇか」
結果として、そのサービスも採用された。
夕方には温泉手形を使う客がすっかり増え、受付の列も朝より明らかに短くなっていた。
ユウは通りの端からその様子を眺める。
「かなり楽になったね」
「ああ」
ダンも今日は素直に頷いた。
少し離れたところでは、旅人が集めた印を見せ合いながら楽しそうに話していた。
記念に持ち帰ると言っている者もいる。
そこへドノバンが歩いてくる。
「どうだ」
「すごく好評だよ」
ユウが答えると、ドノバンは満足そうに鼻を鳴らした。
「そうか」
「明日はもっと作れそう?」
「……は?」
ドノバンの顔が止まる。
カヤが空になりかけた箱を持ってきた。
「もうほとんどないよ!」
しばらく沈黙が流れた。
ドノバンは箱を見てから、温泉手形を持って歩く客たちを見る。
そして何かをあきらめたかのように深くため息をついた。
「何枚作ればいい」
「とりあえず百枚くらい?」
「簡単に言うな!」
ドノバンの声が通りに響く。
その横でダンが笑った。
「また仕事増えたな」
「誰のせいだと思ってやがる!」
やわらぎの谷は今日も賑やかだった。
そして温泉手形はこの日を境に、谷を訪れる客にとって当たり前のものになっていくのだった。
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