閑話 噂になった温泉
ユウがパーティーを離れてから、しばらく経った頃。
ガレスたちは、王都の冒険者ギルドにいた。
依頼を終えたばかりで、三人とも少し疲れている。
ガレスは受付近くのテーブルへ腰を下ろし、セシルは依頼書を確認していた。
フィアは温かい飲み物を両手で包んでいる。
いつもと変わらない光景だった。
ただ,
「なあ、聞いたか?」
近くの席から、そんな声が聞こえてきた。
「何を?」
「温泉だよ。最近、冒険者の間で噂になってるやつ」
ガレスは特に気にしなかった。
『温泉』。
それだけなら珍しい話でもない。
だが、続いて聞こえてきた言葉に、セシルが僅かに顔を上げた。
「なんでも、入ったら疲れが一気に抜けるらしい」
「そんな温泉あるか?」
「俺もそう思ったんだけどな。傷の治りまで早くなるって話だぞ」
「怪しい薬でも入ってるんじゃないのか?」
周囲で笑い声が起きる。
フィアが少し興味を持ったように、その会話へ耳を傾ける。
「場所は?」
誰かが聞いた。
「迷いの森の奥」
その瞬間。
ガレスの手が止まった。
「……」
セシルも何も言わない。
フィアだけが、ゆっくり顔を上げた。
迷いの森。
そのさらに奥。
還らずの谷。
ユウが向かった場所だった。
「本当に?」
フィアが小さく呟く。
ガレスは黙ったまま、冒険者たちの会話を聞く。
「俺の知り合いが実際に行ったらしい。最初は死んだと思ったけどな」
「還らずの谷だろ?」
「ああ。でも帰ってきた」
「嘘だろ」
「しかも元気になって」
また笑い声が起きた。
だが話している男は真面目だった。
「温泉だけじゃないらしいぞ。飯まで食わせてもらったって」
「宿でもあるのか?」
「まだ小さいらしいけどな。古い建物を直して使ってるとか」
ガレスは眉を寄せる。
古い建物。
迷いの森の奥。
温泉。
胸の奥で、何かが引っかかった。
だが、まだ偶然だと思った。
「変わった奴が住んでるらしい」
男が続ける。
「黒髪の若い男だって」
ガレスが顔を上げた。
セシルも完全に手を止める。
フィアの目が大きく開いた。
「……名前は?」
ガレスが思わず口にしていた。
話していた冒険者が振り返る。
「ん?」
「その男の名前だ」
「ああ、確か……」
少し考え。
男は答えた。
「ユウ」
沈黙。
周囲の喧騒だけが続いていた。
「……」
ガレスは何も言わなかった。
フィアは胸元で手を握る。
「生きてた……」
その声には、はっきりと安堵が混じっていた。
ユウが町からいなくなったと知った時。
還らずの谷へ向かった可能性があると分かった時。
三人とも、どこかで最悪の結果を考えていた。
だが生きている。
それだけで、フィアは少し肩の力が抜けた。
「本当にユウなのかしら」
セシルが静かに言う。
「黒髪で、名前がユウってだけよ」
「それだけじゃないだろ」
ガレスが答える。
「温泉だぞ」
「……ええ」
二人とも分かっていた。
ユウのスキルは【水質変化】。
水を整える。
水質を安定させる。
流れを調整する。
戦闘では役に立たなかった。
だからパーティーから外した。
その力を使って。
ユウは温泉を整えている。
「なんだよ、それ……」
ガレスが思わず笑った。
馬鹿にした笑いではない。
少し呆れたような。
安心したような。
そんな笑いだった。
「本当に水のことやってるじゃねぇか」
フィアも小さく笑う。
「ユウさんらしいですね」
「そうね」
セシルも僅かに表情を緩めた。
その時、別の冒険者が会話へ加わった。
「その温泉、結構すごいらしいぞ」
「まだあるのか?」
「ヘルウルフがいる」
「危険じゃねぇか」
「それが襲ってこないんだと」
ガレスたちの表情が止まる。
「……は?」
今度はガレスも聞き返した。
「いや、俺も意味分からん。温泉に浸かってるらしい」
「ヘルウルフが?」
「ああ」
「温泉に?」
「ああ」
数秒。
ガレスは黙った。
「……何やってんだ、あいつ」
さすがに理解できなかった。
セシルも眉間へ指を当てる。
「水質変化に、魔物を大人しくする効果なんてないはずよ」
「ないよな?」
「少なくとも、私が知っている限りでは」
フィアが小さく笑う。
「でもユウさんなら、何かしてそうな気もします」
「どんな信頼だ、それ」
ガレスは呆れながら背もたれへ身体を預けた。
けれど。
不思議と悪い気はしなかった。
あの時ユウをパーティーから外した。
このまま一緒にいれば、いつか死なせると思ったからだ。
その判断自体を、ガレスは今でも間違いだったとは思っていない。
ユウは戦闘向きではなかった。
それは変わらない。
だが、戦えないからといって
何もできないわけではなかった。
自分たちが必要としなかった力を。
必要としてくれる場所があった。
それだけのことだった。
「……よかった」
フィアが静かに言う。
ガレスが見る。
「何がだ?」
「ユウさんが、自分の居場所を見つけられたみたいで」
その言葉に。
誰もすぐには答えなかった。
セシルが目を伏せる。
ガレスは腕を組み、少しだけ考える。
そして、
「そうだな」
短く答えた。
その日の帰り。
ガレスはギルドの掲示板へ貼られた一枚の紙を見つけた。
誰かが書いた簡単な地図だった。
迷いの森。
その奥。
還らずの谷。
そして、小さく記された文字。
――温泉あり。
さらにその横へ。
誰かが別の文字を書き足していた。
――飯もうまい。
その下には。
――ヘルウルフ注意。ただし、たぶん大丈夫。
「たぶんで済ませるなよ……」
ガレスは小さく呟く。
それから。
ほんの少しだけ笑った。
いつか。
行ってみてもいいかもしれない。
戻ってこいと言うためではない。
謝るためでもない。
ただ。
あの青年が。
今、どんな顔で暮らしているのか。
少しだけ見てみたいと思った。




