事実
夜
屋敷は深い静寂に沈み、死んだように静まり返っている。
足音を殺し、吸い込まれるように廊下を進む影があった。
エリシアだ。
その手には、月光を弾く小さなガラス瓶が握られている。
中には、どこまでも透明な液体が揺れていた。
「……これで」
小さく、愛おしそうに呟く。
ルーラの部屋の前で足を止め、ノックもせずに静かに扉を開いた。
室内は暗く、微かな寝息だけが聞こえる。
エリシアは影のようにゆっくりとベッドへ近づき、眠るルーラの顔を覗き込んだ。
「……かわいそうに」
優しく、母親が子をあやすように囁く。
けれど、その瞳に宿る光は凍土のように冷たい。
瓶の蓋を開け、震える手を伸ばした。
「これで、楽になりますわ」
毒をその唇へ流し込もうとした、その時。
「……何をしている」
背後から突き刺さった低い声。
部屋の空気が一瞬で凍結し、エリシアの動きがぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返った先に、カインが立っていた。
扉の前で、闇に溶けそうなほど険しい表情を浮かべて。
「……兄様」
一瞬だけ言葉が遅れたが、彼女はすぐに、いつもの完璧な微笑を取り繕った。
「お姉様が、あまりに苦しそうでしたので。」
一点の曇りもない、清らかな声。
「……それは、何だ」
カインが部屋へと踏み込む。
射抜くような視線が瓶に注がれ、逃げ場を完全に塞ぐ。
「……」
沈黙が降りる。それでも、エリシアは笑みを崩さない。
「医師から預かったお薬ですわ」
「嘘だな」
即答だった。思考する間さえ与えない。
「……」
空気が完全に変質した。
隠蔽の仮面が剥がれ落ち、どす黒い本性が露わになる。
「……どうして」
エリシアの声が、地を這うように低くなった。
「どうして、そう思うのですか…?」
「最初から違和感があった。ルーラがお前を怖がった時点でな」
「……たった、それだけで?」
エリシアが小さく笑う。
「お姉様は記憶を失っておりますのよ? 怯えることなど不思議ではないでしょう」
「逆だ」
カインが一歩、さらに距離を詰める。
「真っ白な状態で、本能があれほど拒絶した。それが、お前が彼女にしたことの答えだ」
沈黙。
エリシアの頬から、ゆっくりと笑みが消え去った。
「……そう。やっぱり、お兄様はそういう人ですわね」
ぽつりと、感情の抜けた声。
「……何が言いたい」
「全部ですわ!」
顔を上げた彼女の目には、もう隠すものなど何もなかった。長年積み重なった、ドロドロとした嫉妬と執着が溢れ出す。
「いつも、お姉様ばかり。わたくしは、ずっとお兄様を見ておりましたのに!」
一歩、兄へと詰め寄る。
「どれだけ尽くしても、どれだけ側にいても、お兄様の目にはあの人しか映らない。……あんな、何の価値もない女しか!」
「……」
「だから」
エリシアが狂ったように笑う。
「少し、いなくなっていただこうと思っただけですわ。……それだけのことですの」
まるで、庭の花を摘むような軽さで。
「……突き飛ばしたのも、お前か」
「ええ。でも、運が悪かったですわね。……死ななかった」
くすりと笑う彼女の姿は、もはや美しい少女ではなく、壊れた人形のようだった。
「だから今度こそと思ったのに。また、邪魔が入ってしまいましたわ」
瓶を軽く揺らす。
「それを渡せ」
「嫌ですわ」
即答。
次の瞬間、エリシアが動いた。
瓶を床へ叩きつける。
ガシャンッ、と鋭い音が響き、液体が飛沫を上げて広がった。
「……っ」
鼻を突く強烈な刺激臭。空気が歪む。
「……毒か」
「ええ。触れれば、終わりですわ」
エリシアが後退り、出口へと走り出す。
その瞬間、カインはベッドへ向かって跳んでいた。
眠っているルーラを毛布ごと抱き寄せ、毒が溜まる床から引き剥がす。
「――っ」
しかし、一歩遅かった。
揮発し始めた毒の奔流が、一瞬だけルーラの寝顔をかすめる。
カインは迷わずテラスの扉を蹴り開け、夜気の中にルーラを避難させたが、彼女の手首には、飛び散った毒の雫がわずかに付着していた。
「……ルーラ!」
カインは自身の服を裂き、彼女の肌を焼く毒を慎重に拭い去る。
致死量ではない。だが、毒に触れた箇所は赤黒く変色し、彼女の呼吸は浅く熱を帯びていった。
眠る彼女を外の安全な場所へ残し、カインの瞳に冷徹な怒りが宿る。
「逃がさん」
彼は翻り、廊下へと消えたエリシアを追った。
◇
エリシアは部屋を飛び出した。
その足取りは、まるでダンスでも踊るかのように軽やかだった。
「――待て!」
カインが後を追う。夜の廊下に、二人の激しい足音が響き渡った。
エリシアは暗い回廊を駆ける。けれど、焦りが彼女の冷静さを奪っていた。
向かった先は、あの日、彼女がルーラを突き落とした――あの階段だった。
「……っ!?」
階段の直前、エリシアは足を止めた。
そこには、万が一の追っ手を阻むために、彼女があらかじめ隠しておいた「予備の毒瓶」があった。
それをカインへ投げつけようと、彼女は手すりの陰に手を伸ばす。
しかし、焦燥に震える指先は瓶を掴みきれず、石造りの床へ無残に叩き落としてしまった。
ガシャンッ、と鈍い音が響く。
「……あ」
砕け散ったガラスとともに、透明な液体が飛沫となって彼女の足元を濡らした。
逃げようと踏み出した靴が、自ら撒いた毒に滑る。
「……いや」
バランスを崩し、エリシアの体が宙に浮いた。
咄嗟に手をついた先は、無慈悲に広がる毒の海。
そのまま、彼女の体はかつてのルーラと同じ軌跡を辿り、暗い階段の底へと転落していった。
「……あ、あ……っ」
階段の下で横たわる、エリシア。
全身を打った衝撃。そして、切り傷から直接体内へと侵入する猛毒。
「……っ」
じわりと、指先から熱い違和感が広がる。
目に見えて、白かった肌が不気味に黒く変色していく。
「……いや。いや、ああああ!!」
声が震え、悲鳴が上がる。
階段の上から、カインが冷徹な目で見下ろしていた。
「……兄、様……」
見上げるその顔は、もはや恐怖に歪み、見る影もなかった。
「……助けて。兄様、わたくし、を……」
言葉の途中で、喉が焼けるように引き攣れる。
助けを求めて伸ばした手は、誰に届くこともなく、力なく床に落ちた。
「……そんな。わたくし、が……わたくしが、どうして……」
視界が急速に混濁していく。
自分が用意した毒。自分が選んだ場所。
すべてが自分に牙を剥いた現実を、彼女は最後まで受け入れられなかった。
「……いや……いや……」
最期に漏れたのは、祈りでも後悔でもない。
ただ、己の運命を拒絶する、掠れた嗚咽だけだった。
そのまま、彼女は二度と動かなくなった。
廊下には、ただ、冷たい静寂だけが残された。




