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冷たい毒と、確かな熱  作者: karo


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5/6

事実

屋敷は深い静寂に沈み、死んだように静まり返っている。


足音を殺し、吸い込まれるように廊下を進む影があった。

エリシアだ。

その手には、月光を弾く小さなガラス瓶が握られている。

中には、どこまでも透明な液体が揺れていた。


「……これで」


小さく、愛おしそうに呟く。

ルーラの部屋の前で足を止め、ノックもせずに静かに扉を開いた。


室内は暗く、微かな寝息だけが聞こえる。

エリシアは影のようにゆっくりとベッドへ近づき、眠るルーラの顔を覗き込んだ。


「……かわいそうに」


優しく、母親が子をあやすように囁く。

けれど、その瞳に宿る光は凍土のように冷たい。

瓶の蓋を開け、震える手を伸ばした。


「これで、楽になりますわ」


毒をその唇へ流し込もうとした、その時。


「……何をしている」


背後から突き刺さった低い声。

部屋の空気が一瞬で凍結し、エリシアの動きがぴたりと止まった。


ゆっくりと振り返った先に、カインが立っていた。

扉の前で、闇に溶けそうなほど険しい表情を浮かべて。


「……兄様」


一瞬だけ言葉が遅れたが、彼女はすぐに、いつもの完璧な微笑を取り繕った。


「お姉様が、あまりに苦しそうでしたので。」


一点の曇りもない、清らかな声。


「……それは、何だ」


カインが部屋へと踏み込む。

射抜くような視線が瓶に注がれ、逃げ場を完全に塞ぐ。


「……」


沈黙が降りる。それでも、エリシアは笑みを崩さない。


「医師から預かったお薬ですわ」

「嘘だな」


即答だった。思考する間さえ与えない。


「……」


空気が完全に変質した。

隠蔽の仮面が剥がれ落ち、どす黒い本性が露わになる。


「……どうして」


エリシアの声が、地を這うように低くなった。


「どうして、そう思うのですか…?」

「最初から違和感があった。ルーラがお前を怖がった時点でな」

「……たった、それだけで?」


エリシアが小さく笑う。


「お姉様は記憶を失っておりますのよ? 怯えることなど不思議ではないでしょう」

「逆だ」


カインが一歩、さらに距離を詰める。


「真っ白な状態で、本能があれほど拒絶した。それが、お前が彼女にしたことの答えだ」


沈黙。

エリシアの頬から、ゆっくりと笑みが消え去った。


「……そう。やっぱり、お兄様はそういう人ですわね」


ぽつりと、感情の抜けた声。


「……何が言いたい」

「全部ですわ!」


顔を上げた彼女の目には、もう隠すものなど何もなかった。長年積み重なった、ドロドロとした嫉妬と執着が溢れ出す。


「いつも、お姉様ばかり。わたくしは、ずっとお兄様を見ておりましたのに!」


一歩、兄へと詰め寄る。


「どれだけ尽くしても、どれだけ側にいても、お兄様の目にはあの人しか映らない。……あんな、何の価値もない女しか!」

「……」

「だから」


エリシアが狂ったように笑う。


「少し、いなくなっていただこうと思っただけですわ。……それだけのことですの」


まるで、庭の花を摘むような軽さで。


「……突き飛ばしたのも、お前か」

「ええ。でも、運が悪かったですわね。……死ななかった」


くすりと笑う彼女の姿は、もはや美しい少女ではなく、壊れた人形のようだった。


「だから今度こそと思ったのに。また、邪魔が入ってしまいましたわ」


瓶を軽く揺らす。


「それを渡せ」

「嫌ですわ」


即答。

次の瞬間、エリシアが動いた。

瓶を床へ叩きつける。


ガシャンッ、と鋭い音が響き、液体が飛沫を上げて広がった。


「……っ」


鼻を突く強烈な刺激臭。空気が歪む。

「……毒か」

「ええ。触れれば、終わりですわ」


エリシアが後退り、出口へと走り出す。


その瞬間、カインはベッドへ向かって跳んでいた。

眠っているルーラを毛布ごと抱き寄せ、毒が溜まる床から引き剥がす。


「――っ」


しかし、一歩遅かった。

揮発し始めた毒の奔流が、一瞬だけルーラの寝顔をかすめる。

カインは迷わずテラスの扉を蹴り開け、夜気の中にルーラを避難させたが、彼女の手首には、飛び散った毒の雫がわずかに付着していた。


「……ルーラ!」


カインは自身の服を裂き、彼女の肌を焼く毒を慎重に拭い去る。

致死量ではない。だが、毒に触れた箇所は赤黒く変色し、彼女の呼吸は浅く熱を帯びていった。


眠る彼女を外の安全な場所へ残し、カインの瞳に冷徹な怒りが宿る。


「逃がさん」


彼は翻り、廊下へと消えたエリシアを追った。



エリシアは部屋を飛び出した。

その足取りは、まるでダンスでも踊るかのように軽やかだった。


「――待て!」


カインが後を追う。夜の廊下に、二人の激しい足音が響き渡った。

エリシアは暗い回廊を駆ける。けれど、焦りが彼女の冷静さを奪っていた。


向かった先は、あの日、彼女がルーラを突き落とした――あの階段だった。


「……っ!?」


階段の直前、エリシアは足を止めた。

そこには、万が一の追っ手を阻むために、彼女があらかじめ隠しておいた「予備の毒瓶」があった。


それをカインへ投げつけようと、彼女は手すりの陰に手を伸ばす。

しかし、焦燥に震える指先は瓶を掴みきれず、石造りの床へ無残に叩き落としてしまった。


ガシャンッ、と鈍い音が響く。


「……あ」


砕け散ったガラスとともに、透明な液体が飛沫となって彼女の足元を濡らした。

逃げようと踏み出した靴が、自ら撒いた毒に滑る。


「……いや」


バランスを崩し、エリシアの体が宙に浮いた。

咄嗟に手をついた先は、無慈悲に広がる毒の海。

そのまま、彼女の体はかつてのルーラと同じ軌跡を辿り、暗い階段の底へと転落していった。


「……あ、あ……っ」


階段の下で横たわる、エリシア。

全身を打った衝撃。そして、切り傷から直接体内へと侵入する猛毒。


「……っ」


じわりと、指先から熱い違和感が広がる。

目に見えて、白かった肌が不気味に黒く変色していく。


「……いや。いや、ああああ!!」


声が震え、悲鳴が上がる。

階段の上から、カインが冷徹な目で見下ろしていた。


「……兄、様……」


見上げるその顔は、もはや恐怖に歪み、見る影もなかった。


「……助けて。兄様、わたくし、を……」


言葉の途中で、喉が焼けるように引きれる。

助けを求めて伸ばした手は、誰に届くこともなく、力なく床に落ちた。


「……そんな。わたくし、が……わたくしが、どうして……」


視界が急速に混濁していく。

自分が用意した毒。自分が選んだ場所。

すべてが自分に牙を剥いた現実を、彼女は最後まで受け入れられなかった。


「……いや……いや……」


最期に漏れたのは、祈りでも後悔でもない。

ただ、己の運命を拒絶する、掠れた嗚咽だけだった。


そのまま、彼女は二度と動かなくなった。

廊下には、ただ、冷たい静寂だけが残された。

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