エリシア
扉の外。
エリシアは、石像のように動かなかった。
中の会話は、すべてその耳に届いていた。
「……思い出した」
その一言。
エリシアの指先が、わずかに震える。
けれど、それは恐怖からではない。
「……ふふ」
抑えきれない笑みが、音もなく零れた。
「どうしましょうかね…」
呟きは、冷たい廊下の空気に溶ける。
思い出したのは、まだ断片に過ぎない。
ならば、間に合う。
「……お姉様」
優しく呼ぶ声とは裏腹に、その瞳には凍てつくような殺意が宿っていた。
「ちゃんと、終わらせて差し上げませんと」
静かに踵を返す。
足音は絨毯に吸い込まれ、彼女は差し込む光の向こうへと消えていった。
◇
同じ頃、カインは屋敷に戻っていた。
外套を脱ぎ捨てながら、ふと足を止める。
「……」
わずかに眉を寄せる。
胸の奥をざわつかせる、得体の知れない嫌な予感。
「カイン兄様」
背後からかかった声に、振り返る。
そこにはエリシアが立っていた。いつもの、隙のない完璧な笑顔を浮かべて。
「お帰りなさいませ」
「……ああ」
「ルーラ様のご様子を見てまいりましたの」
あまりに自然な口調。
「……どうだった」
カインの視線が、わずかに鋭さを増す。
「とてもお辛そうで……。記憶の混乱もひどいようでございますわ」
「……そうか」
それは医師からも聞いている。だが
「……それだけか?」
無意識に、問いが重なった。
エリシアが、ほんのわずかに目を伏せる。
「……」
一拍の沈黙。
「……わたくし、少し怖がられてしまいましたの」
困ったように笑い、自嘲気味に肩をすくめる。
「無理もございませんわね。混乱の最中に、急に知らない者が現れたのですもの」
カインは何も答えず、ただ妹を凝視していた。
「ですから」と、エリシアは続ける。
「しばらくは、あまり近づかない方がよろしいかと。余計な刺激は、回復の妨げになりますわ」
理路整然とした言葉。けれど。
「……わかった」
カインは短く答えた。
納得したわけではない。その瞳の奥には、拭いきれない違和感が沈殿していた。
「兄様もお疲れでしょう。どうか、ご無理なさらず」
エリシアは優雅に一礼し、去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、カインは再び深く眉を寄せた。
何かが、致命的に引っかかる。
言葉にできない。
だが、肌を刺すような違和感がそこにはあった。
「……ルーラ」
自然と足が動いていた。向かう先は、ただ一つ。
◇
ルーラは、まだベッドの上で固まっていた。
呼吸は落ち着いたものの、頭の奥のざわつきは消えない。
あの衝撃。突き飛ばされた瞬間の、浮遊感。
コン、と扉が叩かれる。
「……っ」
びくりと体が跳ねる。
「……入るぞ」
低い声。一瞬で、それがカインだと分かった。
「……うん」
扉が開き、カインが入ってくる。足音はさっきよりも少しだけ、急いでいるように聞こえた。
「……顔色が悪い」
開口一番、彼はそう言った。
「……大丈夫」
「何があった」
反射的な拒絶を、間髪入れずに切り裂かれる。
逃げ場のない、まっすぐな視線。
「……」
リゼの言葉がよぎる。
――無理に思い出さなくていい。
けれど。
「……少し」
「……」
「……思い出したの」
カインの表情が、わずかに強張った。
「……何を」
「……突き飛ばされた、感覚」
その一言で、部屋の空気が凍りついた。
「……誰に」
一歩、カインが詰め寄る。その声は、低く、硬い。
「……」
答えようとして、口が止まる。
エリシアの、あの温度のない笑顔が脳裏をよぎる。
「……わからない」
結局、それしか言えなかった。
記憶はある。けれど、それを目の前の男の「妹」だと断定する勇気が、今の自分にはなかった。
「……」
カインは黙って私を見ていた。何かを測るように、あるいは決断を下すように。
「……そうか」
彼はそれ以上、追及しなかった。
けれど、その瞳の奥には、静かな、しかし確固たる殺気にも似た「何か」が宿っていた。
「……無理はするな。何かあれば、すぐに呼べ」
それだけを言い残し、彼は背を向けた。
扉へと向かうその背中が、さっきよりも少しだけ遠く、厳しく感じられた。
扉が閉まり、再び訪れる静寂。
けれど、その重さはさっきまでの比ではなかった。
――その頃。
廊下の影で、エリシアはすべてを聞いていた。
「……ふふ」
暗闇の中で、彼女の口角がつり上がる。
「やっぱり。気づき始めておりますわね」
けれど、焦りの色は微塵もない。
「次で」
ぽつりと呟かれた言葉。
「終わりにいたしましょうか」
誰にも見せることのないその笑顔は、この世のものとは思えないほど醜悪で、美しかった。




