記憶
部屋に戻ると、扉が閉まる音がやけに重く響いた。
「……」
ベッドに腰を下ろしても、さっきの光景が頭から離れない。
あの完璧な笑顔。
温度のない、高くて柔らかい声。
「……怖い」
もう一度、声に出してみる。
理屈ではない。
体が、本能が、あの少女を拒絶している。
「お疲れになられましたね」
リゼが静かに寄り添う。
「少し、お休みになられますか」
「……うん」
横になり、天井を見上げる。
視界に広がるのは、昨日と同じ、何もない白。
それなのに、ちっとも心は落ち着かなかった。
「……リゼ」
「はい」
「私……あの人に、何かされた?」
問いかけた瞬間、部屋の空気がわずかに、けれど明確に張り詰めた。
「……」
リゼは答えない。
すぐには、言葉を返さなかった。
その一瞬の沈黙が、何よりも雄弁にすべてを物語っている気がした。
「……お嬢様」
やがて、静かな声が降ってくる。
「ご無理に思い出す必要はございません」
それだけだった。
否定もせず、肯定もせず。
彼女のその態度は、深入りを拒む壁のようでもあり、私を守る盾のようでもあった。
「……そう」
それ以上、聞いてはいけない気がした。
重い瞼を閉じ、視界を暗転させる。
その、瞬間だった。
――ガシャンッ!
鋭い音が脳内を駆け抜けた。
耳の奥を直接爪で引っかくような、不快な音。
「……っ」
息が詰まる。
ガラスが、割れる音だ。
何かが、音を立てて崩れていく。
『やめて……』
誰かの声。
自分の声ではないはずなのに、すぐ近くで聞こえる。
『……っ、やだ……!』
体が勝手に強張り、胸が潰されそうなほど締め付けられる。
苦しい。怖い。逃げたい。
――コツ、コツ、と。
足音が近づいてくる。ゆっくりと、私を追い詰めるように。
『お姉様』
甘い、とろけるような声。耳元で囁かれる。
『だめですわ、お姉様。そんなこと、してはいけません』
『……ちがっ……』
言葉が出ない。肺から空気が抜けていく。
『カイン兄様が、悲しみますもの』
その一言が、楔のように胸に突き刺さった。
――ぐい、と。
腕を掴まれる。痛い。逃げられない。
『わたくしが、正して差し上げますわ』
優しい声。なのに、氷のように冷たい。
『……いや……っ!』
声が掠れたその瞬間、視界が激しく揺れた。
突き飛ばされ、床の硬い衝撃が全身を襲う。
何かが頭にぶつかり、意識が白く弾けた。
「……っ、は……っ!!」
目を見開く。
視界にあるのは、天井。
いつもの、白い天井だ。
肩が激しく上下し、全身が嫌な汗で濡れている。
「お嬢様」
すぐそばで、リゼの声がした。
「大丈夫でございます。ここにいらっしゃいますよ」
背に、そっと手が添えられる。
今度は幻じゃない。
ちゃんと触れている、温かな手。
「……いま……」
声がうまく出ない。
震える唇を必死に動かし、言葉を零す。
「……思い出した」
ほんの一部。
けれど、それだけで十分だった。
「……」
リゼの手が、ほんのわずかに強くなる。
「……どこまで、でございますか」
低い声だった。
いつもより、少しだけ硬く、鋭い響き。
「……あの人が、私を……突き飛ばした」
部屋が、しんと静まり返る。
あらゆる音が消え、ただリゼの気配だけが重く居座った。
「……そう、でございますか」
リゼの声は、あまりにも静かすぎて感情が読めない。
「……でも、理由は……なんでか、わからないの」
そこだけが、真っ黒な空白のまま。
「……」
リゼは、何も言わなかった。
長い、長い沈黙。
「……お嬢様。本日はこれ以上、お考えにならない方がよろしいかと」
落ち着いた声。けれど、それは決して無視できない強制力を孕んでいた。
「……うん」
私は素直に頷いた。
頭が重い。酷く疲弊している。
でも、一つだけ確信したことがあった。
「……あの人。やっぱり、怖い」
小さく呟いた私に、リゼは答えなかった。
ただ、そっとそばにいてくれる。
その無言の距離が、今は一番の救いだった。
――けれど。
扉の向こうの廊下で。
誰かが足を止め、聞き耳を立てていることに。
二人は、まだ気づいていなかった。




