妹
体を起こす。
昨日よりも、ずっと体が軽い。
指先に力が入るのを確かめ、ゆっくりと腕を動かしてみる。
――問題ない。動ける。
「……」
部屋の中は、しんと静まり返っていた。
昨日と同じ光景のはずなのに、視界が開けたせいか、受ける印象がわずかに違う。
「お目覚めでございますか」
不意に届いたリゼの声に振り向くと、彼女は影のように佇んでいた。
「……うん」
「お加減はいかがですか」
「昨日より、動くみたい」
「ようございました」
リゼの唇に、わずかな微笑みが浮かぶ。
それだけで、張り詰めていた心の糸が少しだけ緩むのを感じた。
「本日は、軽くお体を慣らしましょうか」
「……歩けるかな」
「わたくしの支えがあれば、問題ございません」
迷いのない返答に背中を押され、ベッドから足を下ろす。
床の冷たい感触が、足の裏を通して脳に伝わる。しっかりとした現実の感覚だ。
立ち上がると、視界が少しだけ揺れた。
けれど、倒れるほどではない。
「……いける」
小さく呟いた私に、リゼはあえて手を貸さなかった。
けれど、何かあればすぐに支えられる絶妙な距離を保っている。
その心遣いが、今の私には心地よかった。
ゆっくりと歩く。
一歩、また一歩。
頼りなかった足取りが確かなものになるにつれ、体が自分のもとに戻ってくるような感覚があった。
「……外、行けるかな」
思わず漏れた言葉に、リゼはほんの一瞬だけ思考を巡らせた。
「短時間であれば」
「……行きたい」
「かしこまりました」
上着を羽織り、廊下へ出る。
静かな空間に、自分の足音が反響する。
知らない場所のはずなのに、どこか、魂の深いところで懐かしさを感じたような気がした。
重厚な扉を抜けた先。
目に飛び込んできた光に、私は思わず息を呑んだ。
「……っ」
広い庭園。
手入れの行き届いた色とりどりの草木が、柔らかな風に揺れている。
「……きれい」
自然にこぼれた感嘆。
そのときだった。
「お姉様」
背後から突き刺さった声に、びくりと肩が跳ねた。
振り向くと、そこに一人の少女が立っていた。
淡い色のドレスを纏い、柔らかな笑みを浮かべた、整った顔立ちの少女。
「お目覚めになったと聞いて」
彼女はゆっくりと、こちらの反応を伺うように距離を詰めてくる。
「よかった……本当に。心配しておりましたのよ?」
慈しむような、優しい声。
けれど、私の胸の奥は不快なざらつきを覚えていた。
理由は分からない。
ただ、本能が「近づいてほしくない」と警鐘を鳴らしている。
「……どなた?」
思わず口に出た問いに、少女の動きが止まった。
ほんの一瞬。瞬きをするほどの、わずかな時間。
「……ああ、そうでしたわね」
すぐに、彼女は磁器のような完璧な笑顔を取り繕った。
「わたくし、エリシアと申します」
丁寧にスカートの裾を摘み、優雅に一礼する。
「カイン兄様の妹ですわ」
――妹。
その言葉が頭の中で反芻される。
何かが引っかかる。
喉の奥に小骨が刺さったような、不気味な違和感。
「ご無理なさらないでくださいませ」
優しい声とともに、エリシアがさらに一歩踏み込んできた。
「お体は……」
その白い手が私の肌に触れようと伸びてくる。
拒絶しようと身を固くした瞬間――。
「――お嬢様」
遮るように、リゼがすっと間に入った。
流れるような、自然な動き。
エリシアの手が、空中で止まる。
「まだ回復途中でございます」
リゼの声は静かだった。
「接触はお控えいただければと」
柔らかな物腰。
けれど、そこには明確な拒絶の意思が込められていた。
一瞬の沈黙。
「……そうですわね」
エリシアが微笑む。
何事もなかったかのように。
「わたくしったら、つい。嬉しくって」
くすりと笑うその仕草は、どこから見ても完璧な貴嬢のそれだった。
なのに…。
「……」
やっぱり、嫌だ。
体が、無意識に後退りする。
「お姉様」
呼ばれるたび、肌が粟立つ。
「また、お話しできるのを楽しみにしておりますわ」
向けられた笑顔は、あまりに整いすぎていて
――逆に、体温が感じられなかった。
エリシアは満足げに微笑むと、ゆっくりと去っていった。
遠ざかる足音を聞きながら、私はようやく止めていた息を吐き出す。
「……ご気分はいかがですか、お嬢様」
「……わからない」
正直な気持ちだった。
「ただ……あの人、怖い」
ぽつりと出た独り言。
リゼは、ほんの一瞬だけ、悲しげに目を伏せた。
「……ご無理もございません」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
けれど、その沈黙が、私にある確信を与えた。
――やはり、何かある。
庭の景色が、さっきまでとは違って見えた。
美しく整えられた庭園が、まるで私を閉じ込める檻のように。
風が吹き、葉が擦れる。
その音の奥で。
一瞬、あの高笑いが重なった気がした。




