目覚め
視界が、ゆっくりと光を取り戻していく。
ぼやけた世界の中で、白い天井だけが、やけにくっきりと見えた。
息を吸い込むと、肺に流れ込む空気がわずかに重い。
「……」
ここは、どこだろう。
考えようとするが、思考が途中でぷつりと途切れる。
過去と今が、どこにも繋がらない。
「――ルーラ」
低い声が、すぐ近くで響いた。
視線を向ければ、そこには一人の男がいた。
整いすぎた顔立ち。
彫刻のような美貌をこちらに向け、じっと見つめている。
「……」
誰だろう。
その一言が喉まで出かかって、止まる。
「目が覚めたのか」
少しだけ、彼の声が緩んだ。けれど、その双眸は私を射抜いたまま逸らされない。
「……ここは」
掠れた声。
自分のものとは思えないほど、弱々しい響き。
男の表情が、ほんの少しだけ動いた。
「……覚えていないのか」
静かに、言葉が落とされる。
私は答えられなかった。
というより、答えるための材料が何ひとつなかった。
「……だれ」
やっとの思いで絞り出した問いに、一瞬、空気が止まる。
男の瞳が、わずかに揺れた。
「……カインだ」
低く、押し殺したような声。
「お前の夫だ」
言葉の意味が、理解できない。
夫。自分の。
何も浮かばない。何も引っかからない。
頭の中はただ、真っ白な空白だった。
「……そうか」
短い呟き。
カインという男は、それ以上何も追及しなかった。
「お医者様をお呼びいたします」
別の声が響き、横を見る。
そこには深く頭を下げる一人の女性が立っていた。
「リゼと申します。長くお嬢様にお仕えしております」
落ち着いた、耳当たりのいい声。
知らないはずなのに、なぜかその声だけには、さざなみが引くような安心感を覚えた。
「すぐに戻ります」
彼女が部屋を出ていくと、再び静寂が訪れる。
「……」
カインが、こちらを見る。
何かを言いかけてやめ、ゆっくりと私に近づいてきた。
近い。圧迫感に息が詰まる。
「無理に動くな」
体が軽く押し戻され、ベッドの感触が背中に沈む。
「まだ、完全ではない」
「……っ」
言葉が出ない。
ただ、彼の存在感が強すぎて、そればかりを過剰に意識してしまう。
「……覚えていなくてもいい。今はな」
ぽつりと落とされた言葉。
その含みのある言い方に違和感を覚えたが、思考を巡らせる余裕はなかった。
間もなくして、リゼが医師を連れて戻ってきた。
簡単な問診。名前、年齢、直前の出来事。
私は、何ひとつ答えられなかった。
「記憶の喪失と判断されます」
静かな宣告。
「一時的なものかは、経過を見る必要があります」
カインは短く頷くだけだった。
「……そうか」
「安静に」と言い残し、医師が去っていく。
部屋に再び、沈黙が降りた。
「リゼ」
「はい」
「ついていろ」
「かしこまりました」
迷いのない返答。
カインは一度だけ私を一瞥し、
「……後で来る」
それだけ言って、部屋を出て行った。
扉が閉まり、残されたのは、静かな部屋と、見知らぬ自分。
「お水をどうぞ」
リゼが差し出したグラスを受け取る。
喉を通る水の冷たさだけが、今、確かな現実として感じられた。
「……ありがとう」
自然に漏れた言葉に、リゼがわずかに目を細める。
「当然でございます、お嬢様」
そのときだった。
ほんの一瞬、頭の奥で何かが弾けた。
――パリンッ、と。
何かが割れる、鋭い音。
「……っ!」
「お嬢様?」
リゼが顔を覗き込む。
「……今、何か……」
「……何か、見えましたか?」
「……わからない」
それしか言えない。
けれど、確かに脳裏をかすめたものがあった。
「……」
リゼはそれ以上踏み込まず、ただ静かに寄り添ってくれる。
その距離感は、とても心地よかった。
けれど、胸の奥には泥のような違和感が残っている。
何かを忘れている。
決定的な、大事な何かを。
――そのとき。
廊下の向こうから、かすかな笑い声が聞こえてきた。
高くて、柔らかい、女性の声。
けれど。
なぜか、背筋がぞくりと総毛立った。
理由は、分からない。
でも、本能が叫んでいる。
あの声は、嫌だ。
はっきりと、そう思った。




