カイルの望み
航海の準備で毎日が慌しくすぎていく。
山に行く余裕はなく、帰ってくるまでラタにももう会えない。
家士には一度、お礼をどうしましょうかと尋ねられたが、いつか自分で会いに行くと決めた。
(事故とはいえ、先月会っておいて良かったな)
マルコへの引き継ぎの手紙を書きおえて封をする。
伝令に頼もうと廊下に出ると、祖母の侍女に呼び止められた。
部屋に呼び出され、お説教の予感に身体が縮む。
祖母アイラの部屋の扉を開き、向かい合ってソファに座った。
重厚な机の向こうで暖炉の火がぱちぱちと音を立てている。
アイラが静かに話し始める。
「随分とやんちゃをしたそうね」
「……すみません」
アイラがゆっくりと扇子を閉じる音にカイルは身を小さくする。
「何を謝っているのかしら?」
「……後先考えずに、自分で後始末しきれないことをやらかしました……」
子どものような謝り方に、アイラは目を細める。
「勉強になった?」
「……はい」
「ではこの件は、これで終わりにしましょう」
アイラの言葉にカイルは顔を上げる。
商売第一の父オリバーは、無用な損失にかなり怒っていた。
「……いいんですか」
「安易に貴方の葬儀を決めたオリバーにも、わたくしたちは怒っているのよ。
だいたい、面倒ごとに対応しているのはアランじゃないの」
「それはそう」
真面目な顔でふたりで視線を合わせて、それからくすりと笑う。
「オリバーにも、たまには良い薬でしょう。
これ以上騒ぐようなら、あの煩い口の閉じ方を思い出させてあげないとね」
アイラは世間では、亡き祖父と共に、弱い人々に寄り添い続け、虐げる者に毅然と立ち向かった聖母のような人だと言われている。
女性の人権を勝ち取った立役者のひとりだ。
だがその実、彼女は微笑みを絶やさないまま相手を平伏させる、老獪な女傑だった。
「……あの男が山の民を虐げたことが、そんなに腹立たしかったの?」
「それは、腹も立ちましたけど……無闇に弱い相手を虐げる者は粛清されるべきだと思いました。
完全な平等なんて夢物語なのは分かってます。
だけど、限度ってものがある」
思い出すだに、また怒りが湧く。
そんなカイルをアイラは静かに見ていた。
「それで、その理想を掲げて、貴方は何を成したかったの?」
その声に責める色はない。
ただ、言い訳も曖昧さも許さない厳しさがある。
「分からないけど……あんなことが許される世の中は、おかしい」
膝の上で拳を握りこむカイルに、アイラは小さく微笑む。
「カイル。世界は理想だけでは動かないの。――例えば、ほんの五十年前まで、私たち女には権利がなかったわ。
それをわたくしも『当たり前のこと』と受け入れて生きていた」
過去を想起するようにゆっくりと瞬きをしてから、アイラは淡々と続ける。
「でもそれは、法を作っていたのが男だった、というだけだったの。
それが変わったのは、なぜだか分かる?」
「それは……お祖父様のような、理解のある男が声を上げたから」
「いいえ。それは傲慢なお伽話よ」
アイラはばっさりと否定した。
「理解ある男は、昔からいた。貴方のお祖父様のようにね。
それでも女の扱いは、何百年も変わらなかった。
変わったのは――その方が、男たちにとって合理的になったからよ」
「……合理的」
呆然と呟くカイルに、アイラは頷く。
「抵抗し、抗議し、投獄され、処刑され、辱められ……それでも命を懸けた女たちがいたの。
虐げ続けるより、権利を認めた方が『安上がり』だと判断させるところまで、男たちを追い詰めた結果よ。
わたくしたちは、少しそこに手を差し延べただけ。……だけど、山の民は、そこまで強くわたくしたちに何かを求めているかしら?」
老成されたアイラの目が、情動を持て余すカイルに現実を突きつける。
「今、彼らを抑えるコストは低い。
搾取することで富を維持している人々にとって、あなたの『理想』は危険な毒でしかないわ。
そんな理想を歓迎する貴族はいないでしょう」
「……それは、じゃあ、」
カイルは絞り出すように言った。
「何をやっても無駄だって、ことですか」
「貴方が何をしたいか、ということよ。
今すぐに世の中を変える力がなかったとしても、理想を掲げ続ければ、貴方はきっと高潔な思想家と称えられるわ。
そしてそれが世の中を変える一助になる。――遠い未来でね」
遠い、未来で。
最後のその一言が、カイルのずっと抱えていた、凝り固まった鬱屈にヒビを入れる。
「――わたくしたちの自慢の、賢いカイル。
優しさを、捨てるのではなく、仕舞う方法を覚えなさい。
貴方なら、目先の感情ではなく、自分が何を成したいのかを正しく計算することができるはず」
すぐには全てを受け止めきれず、カイルは黙り込んだ。
間違ったことをしたとは思わない。
あの怒りは、人として正しいと思える。
誰かが他の人間と同じ土俵にすら立たせてもらえないこと。
命が軽く扱われること。
声を上げる手段さえ持たないこと。
それに怒りを覚えるのが、人の心だと思う。
――けれど。
胸の奥にまだ燻るこの怒りは、純粋な義憤だったろうか。
一年前のカイルなら、ここまで強く怒れただろうか。
(ラタ……)
いつかカイルの知らないどこかで、彼が同じように卑劣な目に遭うかもしれない、その可能性がカイルから冷静な判断を奪った。
自分は正義を執行したかったのか。それとも、――
「……ありがとうございます、お祖母様。俺、間違えてました」
カイルは顔をあげ、真っ直ぐにアイラを見る。
「理想を掲げることは、尊いことです。
そういう役目を担う人は絶対に必要だ。――でも、俺のやりたいことは多分、それじゃなかった」
きっと未来は少しずつ良くなっていく。
人にはその力があると信じたい。
だが、遠い未来を、ただ悠長に待ってはいられない。
「俺は、……厳しい場所にいる人々が、もう少しましな世界に辿り着くために、今、できることをしたい」
彼らが世界にすり潰されてしまう前に。
「そう。博愛というやつね。……誰に似たのかしらね。
オリバーはあんなに強欲な狸に育ったのに」
自分の息子を強欲な狸呼ばわりするアイラに、カイルは苦笑する。
「そんなたいそうものじゃないです。
……友達がいるんです。
友達なのに、冬だったら俺のこと見捨てるとかいう、ひでぇやつが」
瞼を閉じて思い浮かぶのは、あの、黒曜石のような真っ黒の瞳。
「たくさんの人のためとかじゃない。
俺はきっと、あいつに、あいつの生きる場所で、『お前と友達になって良かった』って言わせてやりたいだけだ」
そう言い切って、自分の望みがすとんと腹に落ちる。
寧ろなぜ今までそんな簡単なことに気づかなかったのかと不思議に思う。
彼がカイルにくれたものに、見合うだけのものを返したい。
そうでなければ対等な友達として胸を張れない。
「金を渡すのは簡単だけど、あいつはどうせ俺が精一杯貢いだって、キノコの大群を見つけたくらいにしか思ってくれないんだ。
かと言ってこっちで俺が守ってやるって言っても、家畜にはならないって断られる。
――だったら、あいつに届くためには、世界の方を変えるしかないでしょ?」
初めから、ラタが受け入れるのは、世界そのものだけなのだ。
清々しい気持ちのカイルを、アイラが優しい眼差しで見ていた。
「……それが、あなたの望み?」
「はい。父上なんかより、よっぽど強欲な、俺の望みです」
カイルは間もなく航海に出る。
少なくとも一年は領に戻ってこれない見込みだ。
父やアランとはどこかの港町で会えるかもしれないが、体力の落ちてきたアイラと会うことは難しいだろう。
「……手紙を書きます。
俺が帰ってくるまで、どうかお元気でいてください」
「ええ。お土産を楽しみにしているわ」
アイラがにこりと笑う。
カイルは立ち上がって、一度深くアイラに頭を下げ、部屋を後にした。





