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捨てられ貴族と山暮らしの少年  作者: 花鶏
§ 山の狼 §
35/39

君の名前


 ラタはしばらく黙っていたが、やがて、ぽつぽつと話し始めた。


「……領主の子どものカイルが、バルモア様に誘拐されて、死んだって、聞いた……」


 視線は地面に落ちたままだ。


「無事に、家に帰れなかったのかと思って……領主の跡継ぎが来てるっていうから、聞きに行ったんだ。

 初めは兵士に追い返されたけど、メダル見せたら入れてくれた。

 おまえは元気だって、教えてもらった」

「……うん」


 苦笑が漏れる。


「ちょっとアレな父親のせいで、死んだことになっちゃってさ。

 今は、カイル・ブレアって名前」

「カイル・ブレア」

「うん」


 ラタは少し口を尖らせる。


「……よく分からない。どっちも、おまえのこと?」


 その問いに、カイルは一瞬躊躇ってから答える。


「……うん」


 肯定した瞬間、胸に支えていたなにかが、すとんと腹に落ちた。


「どっちも、俺だよ」

「ふうん。どんな字?」


 予想外の質問に少し驚きつつ、カイルは指で地面に文字を書く。


 『Kyle Blair』。


 今のカイルを示す綴り。


 ラタはそれをじっと見つめていた。


 落ち着いた様子のラタに安心して、カイルはお礼を言う。


「――アランを、助けてくれてありがとう。大事な兄なんだ」


 ラタは一瞬視線を上げて、また視線を下ろす。


「……普通は、噛まれて、熱が出て、治らないこともあるんだろ」

「うん」

「……おれはたぶん治るから……しょうがないなって、思って」


 ラタはなんでもないことのように言う。


 しょうがないなんて、思ってほしくない。

 だけど、アランが噛まれれば良かったとも思えない。

 身勝手な自分の思考に、カイルは下唇を噛む。


「……嬉しいけどさ。

 ほんとにありがたかったけど、少しは自分のことも考えてよ」

「考えた。でも……、じいちゃんが、死んだとき、もう、おれの仲間はいなくなったと思った。

 あの人、おまえの家族だろう。

 死んだら、おまえが、泣くかと思って」


 胸が詰まる。


「ラタ」


 やっと出した声は、少しだけ、縋るみたいになってしまう。


「やっぱり、俺のところに――」


 そこまで言いかけて、口を噤む。


 それはもう、答えの出た話だ。


 せっかく言葉を止めたのに、ラタは予想どおり、あっさりと断った。


「行かない」


 それから、以前とは違う理由を教えてくれた。


「おれがいなくなると、あの山の山踏みがいなくなる」

「……麓の人間が困るのを心配してるのか?

 そんなのは領主が考えることで、お前が負う責任じゃない」

「そうじゃない。

 山は、山の民がいないと、すぐに閉じる。

 道も、罠も、獣の通り道も、全部わからなくなる」


 ゆっくりと、目を閉じる。


「じいちゃんの守ってきた、おれの住む場所だ。

 おれが生きてるなら、おれが守るものだ」


 損得の話ではない。

 好き嫌いの話でもない。

 ――山で生きている人間の、誇り。


 良い寝床。美味しい食事。命のかからない仕事。

 そのどれもがラタにとって、この山に比べるべくもないと、もう分かっている。


「……そっか」


 身じろぎしたラタが、顔を顰めて傷を押さえる。

 カイルは慌てて腰を浮かせたが、特にしてやれることはなかった。

 山にいた時と同様、何もできないまま、隣に座っていることしかできなかった。


「……じゃあ、もう少し気をつけてくれよ。

 お前はこの俺の胃袋を満足させられる、唯一の凄腕料理人なんだから」

「なんだそれ」


 ラタは呆れたように少しだけ笑った。


 しばらく外の火の爆ぜる音を静かに聞く。

 夜の気配が、山から降りてくる。


 ラタがふと思い出したように話し始めた。


「……名前」

「うん?」

「おれの、名前。違った」

「なにが」


「……じいちゃんの書き付け、もう一枚あった。

 おれの名前が書いてあった。

 カイルが教えてくれたのと、違った」


 そう言ってラタは褐色の指で、地面に書かれたカイルの名前の隣に『Ràth』と綴る。


「名前みたいなのがたくさん書いてて、これに丸してあった。

 これ、おれの名前だろう? 違う?」


 『Ràth』。


 確かに『ラタ』と読める。


 カイルにとっては、何の役に立つんだと文句を言いながら勉強させられていた、文献で見かける綴り方だ。

 ずっと西の地域で百年以上前に日常的に使われていた古い綴り方。


 こんな今は誰も使わない方言より新しい外国語が有用ではないのかと言って、教師を困らせていた子どもの頃の自分。


「……ラタのお祖父様か、ご先祖様は、西の方の人だったのかもな」

「そうなのか?」

「旧エインズワースの綴り方だよ。

 確か……古い言葉で『砦』とか『聖域』とかそういう意味だったはずだ」


「せいいき」


「『守られる場所』。誰にも侵されない、大切な場所っていう意味」


 そう説明するとラタは軽く目を開き、それから地面の自分の名前を見て少し寂しそうに――とても愛おしそうに笑った。


「……おまえ、物知りだなぁ。

 ……そうか。会えない人の文字が教えてくれるのは、役に立つことだけじゃないんだな」


 その言葉にカイルはぐっと唇を引き結ぶ。


 ラタは血で汚れた毛皮のクロークを肩に引きあげて包まり直した。


「字、教えてくれて、ありがとう」


 ラタはそう言って静かに瞼を閉じた。

 呼吸が、回復を待つ獣のように、小さく深く、一定のリズムに変わっていく。


 カイルは火で温めておいた石を厚手の布で包み、クロークの内側に差し入れる。

 ラタは眠ったままそれを胸元に抱き込んだ。


 ラタは頭の回転も速い。

 文字もすぐに覚えた。

 体力も忍耐力もある。

 その辺の人間より、余程能力が高い。


 なのに、こんな大怪我をしても、領主家の嫡男を助けても、ラタの得る報酬は雀の涙だ。

 現状に甘んじることなくその能力を有効に使えば、もっと効率よく、豊かに暮らせるはずなのに。


 カイルはずっと、恵まれた能力を活かさない奴は怠惰だと思っていた。

 這いあがる努力をしない人間が虐げられるのは、ある程度仕方ないことだと思っていた。


 そういう考えを間違っているとは思わない。文句を言うばかりで何も行動しない、理不尽に甘んじる奴らにも責任がある。


 ――だけど今は。


 ただ泥臭く、不器用に、先人から渡されたものを守る。

 悪意に染まらず、不条理に折れず、己の役割を果たす。


 そうやって生きている彼らの在り方を、代え難く美しいとも思った。


 ぱちぱちと外の火の音が幕を隔てた夜の空気に響く。


 揺れる炎が幕内をうっすら橙に染め、眠るラタの輪郭を縁取っている。


 遠くで番兵の交代の声が聞こえる。


 カイルは眠るラタの隣に、ただ座っていた。


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