ラタの傷
一晩、焦燥に暴れる心臓を宥めてなんとか眠り、翌朝、まだ陽も昇りきらないうちにカイルは馬に鞍を置いた。
「何をしている! それはアラン様の ――と、あ、カイル坊ちゃ……?」
目を丸くする厩番を、人差し指を口に当てて黙らせる。
「馬、借りてく。
俺を見たことは誰にも言うな。
詳しいことは家士に聞いて」
カイルは踵で馬腹を蹴る。
手綱を強く握って、朝靄の中を駆け出した。
山狩の陣営は、山の麓の開けた場所に設けられていた。
峠を下った先、川沿いの平地を均しただけの野営地だ。
吐き気を催すほどの血を焼く臭い。湿った土と、焚き火の煙。
カイルは馬を降りる。
ほとんど一日中、無理をして走らせてしまった。
「ごめんな。おまえ、流石うちで一番なだけあるよ」
馬の背を叩きながら陣営に近づく。
粗末な天幕がいくつも立ち並び、縄に干された血染めの包帯が風に揺れている。
槍や盾は既に束ねられ、荷駄も半分ほどまとめられている。
撤収の気配が濃い。
山狩が始まって今日で一週間だ。
そろそろけりをつけるのだろう。
カイルは手近な兵の腕を掴んだ。
「アラン様を助けた山の民はどこだ。
怪我をしていると聞いた」
「ああ、あの……」
兵は視線を泳がせ、周囲を見回す。
「おい! アラン様を助けたあいつ、どこ行った?」
「え? 見かけませんね。もう帰ったんじゃないですか?」
「山の民は皆戻りましたよ」
「そんな怪我じゃなかっただろ。
三日で動けるわけが――」
ひとりの下働きが遠慮がちに申し出る。
「手当しようとしたら、ほっといてくれって言われて……」
治療用の大きな幕舎を覗いたが、ラタの姿は見えない。
最後にラタを見たという場所へ足を向ける。
喧騒から外れ、荷駄や予備物資が積まれた一角の、更に奥。
まるで壊れた道具でも放り込むような場所に、風除け程度の布を張っただけの小さな天幕があった。
そっと幕をめくって中を覗く。
「……ラタ?」
真っ黒の短い髪の男が毛布に包まって丸くなっていた。
眠っているようなので、起こさないように静かに寄る。
ラタだ。
ふうふうと荒い息に、毛布の下の肩が上下する。
泥のついた靴も脱がされていない。
グランフォードでは、山の民への露骨な差別は少ない。
だが、優先順位はある。
身分のある者が最優先。
兵が次。
領民がその次。
傭兵がその後。
――そして最後に、山の民。
護衛に治療を申しつけられれば対応するが、一言遠慮されればもう気にも留められない。
治療用の幕舎に行き、薬師に声をかける。
「傷薬と包帯と、水をくれ」
薬師が、身元の分からない、身なりの良いカイルを見て怪訝そうに尋ねた。
「どなたか、お怪我を? 私が参りましょうか」
「いい。俺がやる」
短く言い切る。
携帯食は必要かと聞かれたので、それも貰っておいた。
近くにいた兵士に声をかけ、荷駄から鍋や器を拝借する。
天幕の風下に小さな火を熾して粥を作った。
膝をつき、ラタの上着を脱がせる。
脇腹に巻かれた布は赤黒く固まり、初めに応急処置で巻いてからそれきりだと分かる。
ラタの身体に触れた瞬間、焼けるような熱が手のひらに伝わった。
包帯は緩んでいるのに、乾いた血が貼り付いている。
少しずつ湿らせて慎重に剥がす。
傷口を洗い、薬を塗り、包帯を巻き直す。
その深い傷に、指が震える。
胸の奥で、どろりとした何かが煮える。
――怒鳴り散らしてやろうか。
身分を明かして、全員締め上げて、命令違反で罰してやろうか。
そんな衝動をかろうじて飲み込む。
(……良かった)
奥歯を噛みしめる。
(誰にも、鱗を見られていない。良かったんだ)
もし誰かが手厚く看病してくれて、鱗が露呈していたら。
こんな風に、ここで寝ていることも叶わなかったかもしれない。
滲む額の汗を拭うと、小さな声が漏れた。
ラタの瞼が震える。
ぱっと目を開いて、警戒する獣のように体が強ばり、それから、焦点が合う。
真っ黒の、黒曜石のような目が、カイルを捉える。
「……カイル?」
「……久しぶり」
平静を装おうとしたが、つい声が震えてしまった。
警戒を解いたラタはまた目を閉じる。
外の喧騒は布一枚で遠のき、ふたりしかいない世界は静かだった。
ラタの深い呼吸だけが、一定の間隔で幕内に伝わる。
外の火が、ぱち、と乾いた音をたてる。
粥を作っていたことを思い出し、慌てて確認すると、ちょうど良い塩梅に柔らかくなっていた。
くつくつと美味しそうな音を聞きながらゆっくりとかき混ぜる。
そういえばカイルも、昼に軽く携帯食を流し込んだだけだ。
「……ラタ」
肩を軽く叩く。
睫毛が震え、黒い目がゆっくりと開く。
「食えるか。少しだけでもいいから」
身体を起こそうとすると、ラタは痛みに顔をしかめた。
支えた身体が熱い。
匙で掬って口元に運ぶと、素直に口を開けた。
これが、ラタにとってどれくらいぶりの食事なのかは、もう考えないことにした。
喉が上下するのを、妙に真剣に見守ってしまう。
「どう? まだ食えそう?」
「ん」
それだけ言って、また目を閉じる。
けれど匙を差し出せば、きちんと食べる。
山小屋で看病したあの時と同じ。
あのとき無事に回復したという記憶が、ようやくカイルを落ち着かせた。
27日28日は更新ありません。





