第九話 死んだ父
「死んだはずの父を……見たんです」
若い侍は、そう言った。
宗十郎は家系図を机に置いた。
「父親の名は?」
「神谷左馬之助」
「いつ死んだ?」
「三十年前です」
「死因は?」
「病です」
「墓は?」
「ございます」
「遺体は確認したか?」
若い侍は黙った。
「……幼かったので、覚えていません」
宗十郎は家系図を見る。
「お前の名は?」
「神谷新之助」
「左馬之助は、どんな男だった?」
「厳しい人でした」
「恨んでいるか?」
新之助は少し考えた。
「……怖かったです」
「なぜ?」
「父は、家のことを何も話してくれませんでした」
「何か秘密があった?」
「分かりません」
宗十郎は家系図を指した。
「この黒い線は?」
「今日、私が引きました」
「なぜ?」
「父が死んだことを……自分に言い聞かせるためです」
宗十郎は黙った。
その時。
佐吉が口を挟んだ。
「でも、昨夜見たんですよね?」
「はい」
「どこで?」
「浅草です」
「何をしていた?」
「私を見ていました」
新之助の顔が青ざめる。
「父は、私を見て……何も言わずに消えました」
「追わなかったのか?」
「追いました」
「そして?」
「路地の奥で、姿を失いました」
宗十郎は立ち上がった。
「案内しろ」
浅草。
昨夜、新之助が父を見たという場所。
宗十郎は周囲を歩いた。
細い路地。
長屋。
裏口。
そして古い井戸。
「ここです」
新之助が指差す。
「この角を曲がったところで父を見ました」
宗十郎は地面を見る。
泥の上に足跡が残っている。
「新しい」
「え?」
「昨夜のものだ」
足跡は二人分。
一つは大きい。
もう一つは小さい。
宗十郎は跡を追った。
足跡は長屋の裏へ続いている。
そこには古い蔵があった。
鍵が掛かっている。
宗十郎は扉を見る。
「この蔵は?」
近くの老人が答えた。
「昔から神谷家のものだ」
「誰が使っている?」
「今は誰も」
宗十郎は鍵穴を見る。
埃が剥がれている。
「誰か入っている」
扉を開ける。
中は暗い。
古い家具。
箱。
書類。
そして壁に、一枚の肖像画が掛かっていた。
新之助が息を呑む。
「父です」
肖像画には、三十年前の神谷左馬之助。
宗十郎はその顔を見た。
そして、肖像画の下に置かれた箱を開けた。
中には大量の書状があった。
「これは……」
新之助が震える。
書状には、三十年前の日付。
差出人は複数。
内容は、米の取引や土地の売買。
しかし、一つだけ妙なものがあった。
「借用証?」
佐吉が読む。
「神谷左馬之助が、商人から金を借りた……?」
宗十郎は首を振った。
「違う」
「え?」
「この署名は偽物だ」
「どうして?」
「筆跡が違う」
宗十郎は書状を並べた。
一枚だけ筆圧が違う。
「左馬之助は、右から左へ流す癖がある」
「そんなことまで分かるんですか?」
「商人相手なら、署名を見る機会も多い」
宗十郎は別の紙を取り出した。
そこには大きな金額が記されている。
「三十年前、この家は多額の借金を背負ったことになっている」
「はい」
「だが、この借金は存在しない」
新之助の顔が変わった。
「では、誰が?」
宗十郎は答えなかった。
その夜。
神谷家。
新之助の母親を訪ねた。
老いた女だった。
「左馬之助のことを調べています」
女の顔が強張る。
「……今さら何を」
「三十年前、本当に病死したのですか?」
女は答えなかった。
宗十郎は続ける。
「あなたは知っている」
長い沈黙。
やがて女は口を開いた。
「夫は……死んでいません」
新之助が立ち上がった。
「母上!」
「あなたには言えなかったのです」
「父は生きているのですか?」
「いいえ」
「では、なぜ?」
母親は涙を流した。
「夫は、家を守るために……死んだことになったのです」
宗十郎は黙って聞く。
「三十年前、神谷家の土地を奪おうとした者がいました」
「誰です?」
「当時の代官と、商人です」
「借金をでっち上げた?」
「はい」
「左馬之助は抵抗した」
「だから……」
母親は震えた。
「殺されるところだった」
「それを逃れた?」
「夫は自分が死んだことにして、江戸を出ました」
「どこへ?」
「分かりません」
新之助が呆然とする。
「では、昨夜見たのは……」
「分かりません」
母親は首を振った。
「夫は三十年間、一度も戻りませんでした」
宗十郎は考えた。
「なら、昨夜の男は誰だ?」
翌日。
宗十郎は浅草へ戻った。
蔵の周辺を調べる。
昨夜の足跡。
大きな足。
小さな足。
そして。
蔵の裏側に、小さな穴があった。
「佐吉」
「はい」
「ここを見ろ」
穴の向こうは隣の建物。
さらにその先には別の路地。
「抜け道だ」
二人は中へ入った。
狭い通路を抜ける。
その先に小さな部屋があった。
中には布団。
食器。
そして薬。
宗十郎は薬瓶を手に取る。
「……この薬」
「何です?」
「神谷家で使われている薬と同じだ」
佐吉が驚く。
「じゃあ、ここに住んでいる人間が?」
宗十郎は答えなかった。
その時。
背後から声がした。
「動くな」
振り返る。
男が刀を構えている。
年は五十ほど。
顔には深い傷。
新之助が息を呑んだ。
「……父上?」
男の手が震えた。
「新之助……」
三十年ぶりの再会だった。
しかし。
宗十郎は刀を見た。
「左馬之助」
「何だ」
「お前は、なぜここへ戻った?」
左馬之助は黙った。
「息子に会うためだけではないな」
男の目が鋭くなる。
「……息子を巻き込むつもりはなかった」
「何をするつもりだ?」
左馬之助は懐から古い書状を出した。
「これを取り戻す」
「何だ?」
「三十年前、私の家を奪おうとした証拠だ」
「まだ残っているのか?」
「ああ」
左馬之助は言った。
「だが、相手も同じものを探している」
宗十郎は黙った。
「だから昨夜、息子に姿を見せた」
「なぜ?」
「私が生きていることを知らせるためだ」
「手紙を出さなかった理由は?」
左馬之助は俯いた。
「……息子が危険になる」
その瞬間。
外から足音が聞こえた。
一人。
二人。
三人。
宗十郎が刀に手をかける。
「来たな」
扉が蹴破られた。
黒装束の男たちが入ってくる。
「書状を渡せ!」
左馬之助が叫ぶ。
「逃げろ!」
しかし宗十郎が前に出た。
一人目の刀を受け流す。
二人目の腕を打つ。
三人目の足を払う。
狭い部屋。
刀を振り回すには向かない。
宗十郎は相手の動きを利用して、一人ずつ倒していく。
最後の男が逃げようとした。
佐吉が足を引っかける。
「逃がすか!」
男は倒れた。
宗十郎は男の懐から紙を取り出した。
そこには見覚えのある名前。
そして現在の商人の名。
三十年前の事件を利用し、今も神谷家の土地を奪おうとしている者がいた。
数日後。
奉行所。
三十年前の証拠が提出された。
古い借用証。
偽造された署名。
当時の土地記録。
そして今回、神谷家を狙っていた者たちの証言。
すべてが揃った。
神谷家の土地は守られた。
そして。
神谷左馬之助は、三十年ぶりに息子と向き合った。
「……父上」
「すまなかった」
「どうして、何も言ってくれなかったんです」
「お前を守りたかった」
「でも、私は父上が死んだと思っていました」
左馬之助は黙った。
「それでも……」
新之助の目に涙が浮かぶ。
「生きていてくれて、よかった」
左馬之助も目を伏せた。
その帰り道。
佐吉が宗十郎に尋ねた。
「宗十郎さん」
「何だ」
「結局、死んだ父親じゃなかったんですね」
「ああ」
「じゃあ、怪談じゃなかった」
「最初からそう言っている」
「でも、三十年間も死んだことになっていたなんて……」
宗十郎は月を見上げた。
「人は、死んだことにされることがある」
「……」
「だが、本当に恐ろしいのは死人ではない」
「何です?」
宗十郎は歩きながら答えた。
「生きている人間が、誰かを死人にしてしまうことだ」
その夜。
薬種店へ戻る。
戸を閉めようとした宗十郎の目に、一枚の紙が入った。
差出人はない。
紙には一行だけ。
――月影の名を知っている者がいる。
宗十郎は紙を火鉢へ入れた。
炎が文字を焼く。
佐吉が尋ねる。
「次の依頼ですか?」
「……いや」
宗十郎は炎を見つめた。
「これは、依頼ではない」
「では?」
宗十郎は静かに答えた。
「警告だ」




