第八話 死んだ妻からの手紙
「私は殺された」
たった五文字。
だが、その五文字には、人を震え上がらせるだけの力があった。
宗十郎は紙を机の上に置いた。
「妻の名は?」
男は答えた。
「お雪です」
「年は?」
「二十五」
「いつ死んだ?」
「三日前です」
「病死か?」
男は首を振った。
「奉行所は、病死だと言いました」
「お前は?」
「信じていません」
宗十郎は男を見る。
「なぜ?」
男はしばらく黙っていた。
「妻は死ぬ前日まで元気でした」
「それだけか?」
「もう一つあります」
男は懐から小さな櫛を取り出した。
女物の櫛。
歯が一本折れている。
「妻は、この櫛を大切にしていました」
「それが?」
「死んだ時、この櫛がありませんでした」
宗十郎は櫛を見る。
「死体のそばにあったのか?」
「いいえ」
「では、どこに?」
「昨日、私の店先に置かれていました」
宗十郎の目が細くなった。
「誰が?」
「分かりません」
佐吉が口を挟む。
「死んだ人が置いた、と?」
「……そう思っています」
宗十郎は首を横に振った。
「死人は物を置かない」
男の顔が曇る。
「では、誰が?」
「それを調べる」
翌朝。
宗十郎はお雪の家へ向かった。
小さな長屋だった。
部屋はきれいに片づいている。
宗十郎は室内を見回した。
「お雪は、何の仕事を?」
「仕立てです」
「客は?」
「近所の女たちが多かったです」
「最近、何か変わったことは?」
男は考えた。
「……三日前の前夜、妻が誰かと話していました」
「誰だ?」
「隣の部屋から聞こえました」
「男か?」
「はい」
「声は?」
「低い声でした」
宗十郎は床を見る。
畳の隅に小さな糸くずが落ちていた。
赤い糸。
拾い上げる。
「これは?」
「妻の仕事道具ではありません」
宗十郎は糸を指で揉んだ。
普通の木綿糸ではない。
絹。
しかも、かなり高価だ。
「この家に、絹を使う人間が来ていた?」
「……分かりません」
宗十郎は立ち上がった。
近所を聞き込みすると、すぐに一人の名前が出た。
「呉服屋の若旦那です」
お雪の長屋の向かいに住む女が言った。
「最近、お雪さんのところへよく来ていました」
「何を話していた?」
「知りません」
「夜も?」
「はい」
宗十郎は呉服屋へ向かった。
店には若い男がいた。
名を新助という。
「お雪さんを知っているか?」
「ええ」
「よく会っていた?」
「仕事の相談です」
「何の仕事?」
「仕立てを頼んでいました」
宗十郎は男の袖を見る。
赤い絹糸がついている。
「これは?」
新助の顔色が変わった。
「……何でもありません」
宗十郎は袖を掴んだ。
「お雪の家にあった」
新助は黙った。
「話せ」
「……」
「お前は、お雪と何をしていた?」
新助は俯いた。
「金を……貸していました」
「金?」
「病気の母親がいて、薬代が必要だったんです」
「お雪に?」
「はい」
宗十郎は違和感を覚えた。
「お雪は病気だったのか?」
「……」
「答えろ」
「少しだけ」
「夫は知らなかった?」
「知らなかったと思います」
宗十郎は黙った。
「では、なぜ隠した?」
「旦那さんが怒るから」
「それだけか?」
新助は答えなかった。
宗十郎は店を出た。
その夜。
宗十郎は、お雪の家の前にいた。
佐吉も一緒だ。
「宗十郎さん」
「何だ」
「本当に誰か来るんですか?」
「来る」
「どうして?」
宗十郎は長屋の軒下を指した。
「足跡だ」
雨上がり。
土の上に、最近ついた足跡がある。
「お雪が死んだ後も、誰かがここへ来ている」
二人は物陰に隠れた。
しばらくすると。
一人の女が現れた。
女は周囲を確認し、お雪の家へ入った。
宗十郎が後を追う。
「何をしている?」
女が振り返った。
「ひっ!」
「誰だ?」
女は震えていた。
「……お雪さんの友人です」
「名は?」
「お妙」
「何を探していた?」
「何も」
宗十郎は女の手を見る。
小さな赤い糸がついていた。
「これを探していたのか?」
女の顔が青ざめる。
「……はい」
「何だ?」
「帳面です」
「何の帳面?」
お妙は唇を噛んだ。
「お雪さんが残した帳面です」
「どこにある?」
「分かりません」
「なぜ必要だ?」
女は泣き出した。
「お雪さんは……悪いことをしていたわけじゃありません」
「何を知っている?」
「お雪さんは、呉服屋から頼まれて、着物を仕立てていました」
「それだけではないな?」
「はい」
お妙は声を震わせた。
「着物の中に、金を隠して運んでいたんです」
宗十郎は目を細めた。
呉服屋。
高価な着物。
そして金。
すべてが繋がり始めた。
翌朝。
宗十郎は新助を再び訪ねた。
「お雪は、お前たちの荷物を運んでいた」
新助は黙った。
「何を運んでいた?」
「……金です」
「誰の金だ?」
「俺たちだけじゃありません」
「誰がいる?」
新助は答えなかった。
宗十郎は一枚の紙を机へ置いた。
お雪の家から見つかった帳面の切れ端だった。
そこには複数の商人の名前が記されている。
そして、その中に新助の名前もあった。
「お前は、お雪が余計なことを知ったから殺した」
「違う!」
「では誰が?」
新助は頭を抱えた。
「……俺じゃない」
「なら言え」
長い沈黙。
やがて。
「父です」
新助が呟いた。
「店の主人……俺の父親が、お雪を殺しました」
佐吉が息を呑む。
「なぜ?」
「お雪さんは、金の流れを知ってしまった」
「何の金だ?」
「偽造した証文で集めた金です」
宗十郎は黙った。
「父は商人たちから金を集め、それを別の商人へ流していました」
「お雪は?」
「仕立てた着物の中に金を隠して運ばされていた」
「そして気づいた」
「はい」
「だから殺された」
新助は俯いた。
「父は、お雪さんを病死に見せかけました」
宗十郎の目が冷たくなる。
「証拠は?」
「帳簿があります」
「どこだ?」
「店の奥です」
宗十郎は立ち上がった。
その日の夕方。
呉服屋の主人が帰ってきた。
「お帰りなさいませ」
新助が出迎える。
「何だ?」
「父さん」
新助の後ろに宗十郎が立っている。
主人の顔色が変わった。
「貴様……」
「お雪のことを知っているな?」
「知らん」
「なら、この帳簿は何だ?」
宗十郎が帳簿を見せる。
主人は黙った。
「金の流れ」
「偽造した証文」
「そして、お雪への支払い」
主人の顔から血の気が引いていく。
「違う」
「なら、なぜお雪の名前がある?」
「……」
「なぜ死んだ日に、ここから金が動いている?」
主人は刀を抜いた。
「黙れ!」
斬りかかる。
宗十郎は刀を避けた。
男の腕を取り、床へ倒す。
刀が転がる。
「お前は、お雪を殺した」
「……」
「そして、死んだ妻からの手紙に見せかけて、誰かが俺を呼んだ」
男の目が揺れた。
「違う」
「誰だ?」
男は黙った。
宗十郎はお妙を見た。
「お前だな?」
お妙が涙を流した。
「……はい」
「なぜ?」
「お雪さんは、死ぬ前に私へ言ったんです」
「何を?」
「もし自分が死んだら……夫に真実を知らせてほしい、と」
「だから櫛を置いた?」
「はい」
「手紙も?」
「私が書きました」
男が叫ぶ。
「貴様!」
お妙は震えながら言った。
「お雪さんは、あなたが殺したんでしょう!」
店内が静まり返った。
やがて。
外から足音が聞こえた。
奉行所の役人だった。
宗十郎が事前に知らせていたのだ。
帳簿。
証文。
証言。
すべてが揃っていた。
数日後。
お雪の墓前。
夫は一人で手を合わせていた。
「……すまなかった」
宗十郎は少し離れた場所に立っていた。
「俺は、何も知らなかった」
「知らないことは罪ではない」
宗十郎は言った。
「知ろうとしないことが、時に罪になる」
男は涙を拭った。
「妻は最後まで、俺を心配していたそうです」
「ああ」
「どうして……」
男の声が震える。
「どうして死んだあとまで、俺を守ろうとしたんでしょう」
宗十郎は墓を見た。
「生きている時に守れなかったからだろう」
男は泣いた。
宗十郎はそれ以上、何も言わなかった。
その夜。
神田。
月明かりが店先を照らしている。
佐吉が薬草を整理しながら言った。
「宗十郎さん」
「何だ」
「死んだ人から手紙が届くなんて、本当にあると思いました」
「ない」
「ですよね」
「だが」
宗十郎は窓の外を見る。
「死んだ者の言葉を、生きている者が届けることはある」
佐吉は少し考えた。
「……なるほど」
その時。
また戸を叩く音がした。
こん、こん。
宗十郎が戸を開ける。
そこには、若い侍が立っていた。
顔は青ざめている。
「月影の方……」
「何だ?」
侍は小さな包みを差し出した。
「これを見てください」
包みを開く。
中には一枚の古い家系図。
そして。
家系図の中の一人の名前に、黒い墨で線が引かれていた。
侍は震える声で言った。
「この男は……」
「三十年前に死んでいます」
宗十郎は顔を上げた。
「それが?」
侍は答えた。
「昨夜、江戸の町で見たんです」
宗十郎の目が細くなる。
「死んだはずの父を」




