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月影始末人 黒川宗十郎  作者: レモンティー


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第十話 月影を知る男

夜が明けても。

宗十郎は、昨夜の紙を忘れられなかった。

――月影の名を知っている者がいる。

脅し。

警告。

あるいは、罠。

どれにしても、普通の人間が知るはずのない名前だった。

佐吉が店先を掃いている。

「宗十郎さん」

「何だ」

「昨夜の紙……誰が置いたんでしょう?」

「分からない」

「月影って、そんなに有名なんですか?」

「知られてはいけない名前だ」

「じゃあ、かなり危ない人間が知っている?」

宗十郎は答えなかった。

その時。

店の前を、一人の男が通り過ぎた。

五十ほど。

商人風の着物。

杖をついている。

宗十郎は男の足を見た。

右足を少し引きずっている。

男は店の前で一瞬だけ立ち止まり、こちらを見た。

そして、そのまま歩き去った。

「……佐吉」

「はい」

「今の男を見たか?」

「ええ」

「追うな」

「え?」

「俺が行く」

宗十郎は店を出た。

男は神田から浅草方面へ歩いていた。

人混みに紛れる。

宗十郎は距離を取って追った。

男は一軒の茶屋に入った。

宗十郎も少し遅れて入る。

男は奥の席に座っていた。

「黒川宗十郎」

突然、名前を呼ばれた。

宗十郎は足を止めた。

男が笑う。

「やはり、あなたでしたか」

「何者だ?」

「私は藤兵衛と申します」

「何の用だ?」

「月影についてです」

宗十郎は男の前に座った。

「続けろ」

藤兵衛は茶を一口飲んだ。

「私は、あなたを知っています」

「いつから?」

「十年前から」

「なぜ?」

藤兵衛は懐から古い紙を取り出した。

「これを見れば分かります」

宗十郎が紙を見る。

そこには、十年前の事件の記録が書かれていた。

盗賊。

殺人。

行方不明。

そして最後に、

――月影介入。

と書かれている。

宗十郎の目が細くなる。

「これはどこで手に入れた?」

「ある男から」

「誰だ?」

「もう死にました」

「何者だった?」

「元、奉行所の同心です」

宗十郎は紙を机へ置いた。

「それで?」

「私は月影を探している」

「なぜ?」

藤兵衛は少し笑った。

「私の妻を殺した男を探しているからです」

宗十郎は黙った。

「十年前、妻が殺されました」

「犯人は?」

「捕まりませんでした」

「なぜ月影を?」

「妻を殺した男を、月影が知っていると思っています」

宗十郎は男を見た。

「根拠は?」

「妻が死ぬ前に、一枚の紙を残していた」

藤兵衛は懐から小さな紙を取り出した。

そこには、

――月の下で待て。

とだけ書かれている。

宗十郎は紙を見た。

「それだけか?」

「はい」

「なら、月影とは限らない」

「ですが」

藤兵衛は宗十郎を見つめた。

「私は、十年前からずっと探してきました」

「そのために月影の名を?」

「はい」

「そして、俺を見つけた」

「……」

宗十郎は立ち上がった。

「残念だが、俺は月影ではない」

藤兵衛が笑った。

「そう言うと思っていました」

宗十郎はそのまま店を出た。

その夜。

宗十郎の薬種店。

佐吉が店を閉めている。

「宗十郎さん」

「何だ」

「昼間の男、本当に月影を知っているんですか?」

「分からない」

「でも、十年前の記録まで持っていました」

「だから危険だ」

その時。

外から物音がした。

宗十郎が灯りを消す。

「誰かいます」

佐吉が囁く。

宗十郎は戸の隙間から外を見る。

人影が三つ。

「佐吉」

「はい」

「裏口から出ろ」

「でも――」

「急げ」

佐吉が裏へ回る。

宗十郎は一人で店に残った。

次の瞬間。

戸が破られた。

男たちが入ってくる。

刀を抜く。

「黒川宗十郎だな」

宗十郎は薬研を置いた。

「何の用だ?」

「お前に用はない」

「では?」

「月影だ」

宗十郎の目が変わった。

一人が斬りかかる。

宗十郎はかわした。

二人目。

腕を打つ。

三人目。

足を払う。

狭い店内。

相手の刀が棚にぶつかる。

薬瓶が落ちる。

宗十郎は一人の襟を掴んだ。

「誰に頼まれた?」

男は黙る。

「言え」

「……藤兵衛だ」

宗十郎の手が止まった。

翌朝。

藤兵衛の家。

宗十郎が訪ねると、藤兵衛は驚かなかった。

「来ると思っていました」

「昨夜の男たちは、お前の差し金だな」

「はい」

「なぜ俺を襲わせた?」

「月影かどうか確かめるためです」

「くだらない」

宗十郎は男を睨んだ。

「お前は、妻の仇を探しているのではない」

藤兵衛の顔が固まる。

「月影を探している」

「……」

「なぜだ?」

藤兵衛は答えない。

宗十郎は部屋を見回した。

机の上に、古い帳面。

その表紙に一つの名前があった。

「これは?」

藤兵衛が立ち上がる。

「触るな!」

宗十郎が帳面を開く。

そこには十年前の事件。

そして。

月影へ依頼した人間の名前が並んでいた。

藤兵衛の名前もある。

「……お前が依頼人だったのか」

「違う!」

「妻の事件も?」

藤兵衛は黙った。

宗十郎はページをめくった。

そこにあったのは、妻の名前。

そして、その横に、

――依頼取消。

と書かれている。

「どういう意味だ?」

藤兵衛は震えた。

「妻が……依頼したんです」

「何を?」

「自分を殺そうとしている男を調べてほしい、と」

宗十郎は黙った。

「だが、私はその依頼を取り消しました」

「なぜ?」

「妻が怖がっているだけだと思った」

藤兵衛の声が震える。

「その三日後、妻は死にました」

宗十郎は帳面を閉じた。

「では、犯人は?」

「分かりません」

「嘘だ」

「……」

「お前は知っている」

藤兵衛は目を伏せた。

「私の弟です」

「弟?」

「妻と弟は、以前から揉めていました」

「何を巡って?」

「土地です」

藤兵衛は言った。

「妻の実家から相続した土地がありました」

「弟が欲しがった?」

「はい」

「だから殺した?」

「私は……見ていません」

「だが、知っている」

藤兵衛は答えなかった。

宗十郎は藤兵衛を残し、外へ出た。

だが。

門の前に男が立っていた。

昨夜の襲撃者の一人。

「藤兵衛さんから聞きました」

「何を?」

「弟が妻を殺した」

宗十郎は男を見る。

「お前は誰だ?」

「藤兵衛の使用人です」

「なぜ俺に?」

男は周囲を見回した。

「藤兵衛さんは、弟を殺すつもりです」

宗十郎の顔が険しくなる。

「どこにいる?」

「今夜、浅草の河岸です」

宗十郎は走った。

夜。

浅草の河岸。

藤兵衛の弟が一人で立っていた。

その前に藤兵衛。

「兄さん……」

「なぜ殺した?」

「……」

「妻を殺したのは、お前だな?」

弟は刀を抜いた。

「そうだ」

藤兵衛も刀を抜く。

「何のために?」

「土地だ」

二人の刀がぶつかる。

藤兵衛が斬りかかる。

しかし。

宗十郎が間に入った。

「やめろ」

藤兵衛が叫ぶ。

「邪魔をするな!」

「殺せば、お前も人殺しだ」

「妻を殺した男だぞ!」

「だからこそ、裁かせろ」

弟が逃げようとする。

宗十郎が足を払う。

男は倒れた。

そこへ奉行所の役人が現れる。

藤兵衛が宗十郎を見る。

「……なぜ」

「お前が月影を探した理由は分かった」

「では、なぜ助ける?」

宗十郎は静かに答えた。

「月影は復讐屋ではない」

藤兵衛は黙った。

「罪を明らかにする」

「そして?」

「裁くのは、俺ではない」

弟は捕らえられた。

藤兵衛も刀を収めた。

翌朝。

神田。

薬種店。

佐吉が言った。

「結局、月影のことを知っている男はどうなったんです?」

「藤兵衛か?」

「はい」

「妻の墓へ行った」

「それだけ?」

「ああ」

宗十郎は薬草を整理する。

「月影の名を探す理由もなくなった」

佐吉は少し笑った。

「じゃあ、もう安心ですね」

宗十郎は答えなかった。

店の奥から古い木箱を出す。

その中には、月影の印が押された依頼書が何枚も入っている。

宗十郎は一枚を手に取った。

そこには、十年前の日付。

依頼人の名前。

そして最後に――

**黒川宗十郎**

と書かれていた。

佐吉は目を見開いた。

「宗十郎さん……?」

宗十郎は紙を見つめた。

「……これは俺の字じゃない」

店の中から、冷たい風が吹き抜けた。

月影の名を知る者は。

まだ、他にもいる

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