第六話 殺される息子
丑三つ時。
神田の町は、深い闇に包まれていた。
黒川宗十郎の薬種店。
戸を叩く音がした。
こん、こん。
一度。
間を置いて、もう一度。
「……こんな夜更けに?」
店の奥から佐吉が顔を出した。
宗十郎は黙って立ち上がる。
戸を開けると、そこにひとりの老女が立っていた。
六十を越えているだろう。
雨に濡れた着物。
震える手。
そして、泣き腫らした目。
「黒川……宗十郎様でございますか」
「そうだ」
老女は深々と頭を下げた。
「お願いでございます」
「何を?」
「息子を……助けてください」
宗十郎は老女を見る。
「何をした?」
「殺してなどおりません!」
老女は声を震わせた。
「息子は、人を殺してなどおりません!」
佐吉が息を呑む。
宗十郎は静かに尋ねた。
「誰を殺したことになっている?」
「両替商の主人です」
「名は?」
「伊勢屋喜兵衛」
宗十郎の目が細くなった。
「……伊勢屋」
神田でも名の知られた大きな両替商だった。
「息子の名は?」
「辰吉と申します」
老女は懐から一枚の紙を取り出した。
「三日後……息子は斬首されます」
紙には、奉行所の判が押されていた。
辰吉。
二十七歳。
伊勢屋喜兵衛殺害の罪。
死罪。
「証拠は?」
「息子は、殺された時刻に家におりました」
「誰か見ていた?」
「私が見ております」
「それだけでは弱い」
老女は唇を噛んだ。
「だから……信じてもらえなかったのでございます」
宗十郎は紙を返した。
「伊勢屋喜兵衛は、いつ殺された?」
「五日前の夜です」
「辰吉が捕らえられた理由は?」
「伊勢屋から金を盗んだところを見た、と」
「盗んだ?」
「違います」
老女は首を振った。
「息子は伊勢屋の帳場で働いておりました。金など盗む必要はありません」
宗十郎はしばらく黙っていた。
そして言った。
「分かった」
「え?」
「調べよう」
老女の目に、わずかに光が戻った。
「ありがとうございます……!」
「ただし」
宗十郎は続けた。
「息子が本当に無実とは限らない」
老女は黙った。
「私は、無実の者を助ける」
「はい」
「だが、嘘をつく者は助けない」
「……分かっております」
老女は深く頭を下げた。
翌朝。
宗十郎は伊勢屋へ向かった。
大きな店だった。
表には番頭が立っている。
「伊勢屋喜兵衛様の件で、少し聞きたい」
宗十郎が言うと、番頭は露骨に嫌な顔をした。
「奉行所が調べたことでございます。今さら何を?」
「辰吉という男を知っているか?」
「もちろん」
「どんな男だ?」
番頭は即答した。
「金に汚い男です」
「盗みを働いた?」
「そうです」
「何を盗んだ?」
「五十両」
「証拠は?」
番頭の口が止まった。
「……帳簿にございます」
「見せてもらおう」
「それは――」
「見せられない理由でも?」
番頭は黙り込んだ。
宗十郎は店内を見回した。
帳場。
金庫。
そして壁際に置かれた大きな算盤。
ふと宗十郎の目が止まった。
「その算盤」
「何か?」
「珠が一つ、割れている」
「古いものですから」
宗十郎は触れなかった。
ただ眺めた。
「伊勢屋喜兵衛は、いつもこれを使っていた?」
「……はい」
「ならば、奇妙だ」
「何がです?」
「死人が使った算盤が、なぜ今も帳場にある?」
番頭の顔色が変わった。
その夜。
宗十郎は伊勢屋の裏手に回った。
喜兵衛が殺された部屋。
畳には血の跡が残っていた。
刀傷。
宗十郎はしゃがみ込んだ。
血の跡を見る。
「……妙だな」
佐吉が尋ねる。
「何がです?」
「血が少なすぎる」
「え?」
「腹を深く斬られて死んだなら、もっと血が広がる」
宗十郎は畳を指でなぞった。
「それに、この血は畳の目に入り込んでいない」
「どういうことです?」
「殺された場所が、ここではない」
佐吉が目を見開いた。
宗十郎は部屋を調べた。
そして、廊下の端で小さな木片を見つけた。
赤黒い血がついている。
「これは……」
「何でしょう?」
「荷車の車輪だ」
「荷車?」
宗十郎は立ち上がった。
「伊勢屋には裏口がある」
裏口へ回る。
そこには古い荷車が置かれていた。
車輪の一部が欠けている。
宗十郎は木片を合わせた。
ぴたりと合った。
「やはりな」
「何が分かったんです?」
「喜兵衛はここで殺されていない」
「じゃあ、どこで?」
宗十郎は店の裏にある米蔵を見た。
「……あそこだ」
米蔵の床には、黒い染みが残っていた。
そして柱には、血を拭った跡。
宗十郎は周囲を調べた。
「ここで殺された」
「どうして分かるんです?」
「血の量だ」
宗十郎は静かに答えた。
「この量なら説明がつく」
さらに床を探る。
すると、古い紙切れが落ちていた。
宗十郎が拾う。
そこには数字が並んでいた。
米の数量。
金額。
そして、いくつかの名前。
「……これは?」
佐吉が覗き込む。
「米の帳簿ですか?」
「違う」
宗十郎は紙を裏返した。
「裏を見ろ」
そこには、別の数字が書かれていた。
伊勢屋が仕入れた米の量。
実際に売った量。
その差額。
「横流し……」
佐吉が呟いた。
宗十郎は頷いた。
「伊勢屋は、米問屋から仕入れた米を抜いていた」
「でも、なぜ喜兵衛が殺されるんです?」
「辰吉が知ったからだ」
宗十郎は紙を懐へ入れた。
翌日。
宗十郎は辰吉と面会した。
牢の中。
辰吉はやつれ果てていた。
「母から聞いた」
「……母が?」
「ああ」
辰吉は目を伏せた。
「俺は、人殺しじゃありません」
「知っている」
辰吉が顔を上げる。
「本当ですか?」
「まだ分からない」
宗十郎は尋ねた。
「伊勢屋で何を見た?」
辰吉は黙った。
「言え」
「……主人が、米を抜いていました」
「誰と?」
「番頭です」
「それだけか?」
辰吉は唇を噛んだ。
「もう一人いました」
「誰だ?」
「役人です」
宗十郎の目が鋭くなる。
「名前は?」
「……言えません」
「なぜ?」
「言えば、母が殺される」
宗十郎は辰吉をじっと見た。
「お前が黙っているから、母はお前を助けるために俺のところへ来た」
辰吉は拳を握った。
「……すみません」
「謝る相手が違う」
「……」
「母親に言え」
辰吉の目から涙が落ちた。
「母さん……」
宗十郎は立ち上がった。
その夜。
宗十郎は伊勢屋の裏口で待っていた。
月明かりの下。
ひとりの男が出てきた。
番頭だった。
その手には小さな包み。
「待て」
番頭が振り返る。
「誰だ!」
宗十郎は答えない。
番頭が懐から短刀を抜いた。
「邪魔するな!」
斬りかかる。
宗十郎は半歩下がった。
刃が空を切る。
手首を打つ。
短刀が落ちた。
番頭は逃げようとした。
しかし、宗十郎の足がその前に出る。
「終わりだ」
「何のことだ!」
「喜兵衛殺し」
番頭の顔が引きつった。
「俺じゃない!」
「なら、誰だ?」
沈黙。
宗十郎は包みを拾った。
中には大量の金。
「これを誰に渡す?」
番頭は答えない。
宗十郎は静かに言った。
「辰吉は三日後に死ぬ」
「……」
「お前が黙れば、殺人犯として死ぬ」
番頭の顔が崩れた。
「……違う」
「何が?」
「俺は……殺していない」
「では誰だ?」
長い沈黙。
やがて番頭は震える声で言った。
「役人です」
宗十郎は黙って聞いた。
「喜兵衛が帳簿を隠そうとした。役人に渡すはずだった金を……渡さなかった」
「だから殺した?」
「俺は見ていただけだ!」
「辰吉に罪を着せた理由は?」
「帳簿を見たのが辰吉だったからだ……」
すべてが繋がった。
宗十郎は番頭を捕らえた。
そして、隠されていた帳簿も回収した。
三日後。
処刑場。
辰吉は引き立てられていた。
刀を持った役人が近づく。
その時だった。
「待て!」
声が響いた。
宗十郎が歩いてくる。
その後ろには、番頭。
そして数人の町人。
「その男は人殺しではない」
役人が睨む。
「何者だ!」
宗十郎は答えた。
「証拠を持ってきた」
帳簿を差し出す。
さらに番頭の証言。
殺害現場の血痕。
荷車の車輪。
すべてが揃っていた。
役人の顔が青ざめる。
「これは……」
「辰吉が殺したなら、なぜ別の場所から血が出る?」
誰も答えられない。
やがて奉行所から新たな命が届いた。
辰吉の処刑は中止。
再調査となった。
そして数日後。
真犯人である役人も捕らえられた。
神田。
夜。
宗十郎の薬種店。
辰吉と母親が頭を下げていた。
「本当に……ありがとうございました」
宗十郎は首を振る。
「礼はいらない」
「では、何を?」
「二度と、黙って罪を背負うな」
辰吉は深く頭を下げた。
「はい」
二人が帰ったあと。
佐吉が呟いた。
「宗十郎さん」
「何だ」
「人を斬らなくても、悪人を倒せるんですね」
宗十郎は薬草を整理しながら答えた。
「斬るのは最後だ」
「最後?」
「証拠がなく、誰も裁けず、それでも止めなければならない時だけだ」
佐吉は黙った。
宗十郎は店の戸を閉める。
その時。
戸の隙間から、一枚の紙が差し込まれていた。
宗十郎が拾う。
そこには短く書かれていた。
――明日の夜、浅草の見世物小屋で、人が消える。
宗十郎は紙を火鉢へ放り込んだ。
炎が文字を飲み込む。
「……また一つか」
月明かりの下。
黒川宗十郎は、静かに夜の町へ消えていった。




