第四話 死んだ男が来る店
その依頼が届いた翌日の夕方。
神田の薬種屋に、一人の若い女が訪れた。
年は二十ほど。
顔色が悪く、何度も後ろを振り返っている。
宗十郎は茶を出した。
「依頼人か」
「はい……」
女は座ったものの、落ち着かない。
「名前は?」
「お絹と申します」
「死んだ男というのは?」
お絹は膝の上で手を握りしめた。
「父です」
「父親が死んだ?」
「三年前に」
「それなのに、毎晩店へ来る」
「はい」
宗十郎は黙った。
「顔を見たのか?」
「見ました」
「本当に父親だった?」
「間違いありません」
女の声が震えた。
「背格好も、歩き方も、声も……全部、父でした」
「何をしている?」
「店の前に立っています」
「何か話すのか?」
「いいえ」
「ただ立っている?」
「はい」
宗十郎は少し考えた。
「何時に来る?」
「夜の十時です」
「何時まで?」
「一刻ほどすると、いなくなります」
「三年間、毎晩?」
「いえ」
お絹は首を振った。
「昨日が初めてです」
宗十郎の目が細くなる。
「つまり、死んで三年経った男が、昨日突然現れた」
「はい」
「父親は何をしていた?」
「小さな質屋を営んでいました」
「敵は?」
お絹は黙った。
「……いました」
「誰だ」
「父が死ぬ前、何度か役人と揉めていました」
「何について?」
「質草です」
「質草?」
「父は、貧しい人から無理に高い利息を取ることを嫌っていました」
宗十郎は頷いた。
「それで恨まれた?」
「分かりません」
お絹は懐から小さな鍵を取り出した。
「父の死後、これだけが残りました」
「どこの鍵だ?」
「分かりません」
宗十郎は鍵を受け取った。
古い鉄製の鍵。
表面に小さな傷が三つある。
宗十郎は眉を動かした。
「この傷……」
「何か?」
「いや」
以前、見たことがある。
月影の仲間だけが使っていた合図。
三つの傷。
だが、それを知る人間はほとんど残っていない。
「今夜、父親が現れる場所へ案内してくれ」
お絹は頷いた。
その夜。
十時。
宗十郎と佐吉は、お絹の店の向かいにある茶屋にいた。
「本当に来るんでしょうか」
佐吉が小声で言う。
「来る」
「なぜ分かるんです?」
「依頼人が嘘をついている顔ではない」
「……先生は、人の顔まで薬みたいに見てるんですか?」
「黙って見ていろ」
やがて通りの向こうから男が歩いてきた。
お絹が息を呑んだ。
「父です」
男は店の前で立ち止まった。
確かに、死んだ男の姿だった。
宗十郎は立ち上がる。
男は店の戸を開けようとした。
だが、鍵がかかっている。
男はしばらく戸を見つめる。
そして振り返った。
宗十郎と目が合った。
男は逃げた。
「追うぞ」
宗十郎が走る。
男は細い路地へ入った。
さらに曲がる。
宗十郎は追い続ける。
だが、角を曲がったところで男の姿が消えていた。
「どこへ……」
佐吉が息を切らす。
宗十郎は地面を見る。
足跡がある。
雨上がりの泥に、はっきりと残っている。
「ここから先には行っていない」
「では、どこへ?」
宗十郎は周囲を見た。
古い蔵。
閉じた店。
そして一枚の板戸。
板戸には小さな穴が開いていた。
宗十郎が押す。
ギイッ。
戸が開く。
中には地下へ続く階段があった。
「地下?」
二人は降りていく。
階段の先には、狭い地下室。
そこには古い帳簿が積まれていた。
宗十郎が一冊を開く。
質屋の帳簿だった。
だが、普通の質屋の帳簿ではない。
名前。
金額。
そして、その横に――
「回収」
と書かれている。
宗十郎は眉をひそめる。
「これは人の名前だ」
「人?」
佐吉が覗き込む。
「質草を返せなかった人間を、どこかへ送っていたらしい」
さらにページをめくる。
すると、一つの名前があった。
お絹の父親。
その横には、
――回収失敗。
宗十郎の顔が険しくなる。
「父親は被害者ではなかったのかもしれん」
そのとき。
背後から声がした。
「違う」
二人が振り返る。
そこに、先ほどの男が立っていた。
「父は、途中で気づいたんだ」
宗十郎が尋ねる。
「お前は誰だ」
男は答えた。
「お絹の父親の弟子だ」
「死んだ男の姿をしていた理由は?」
男は苦笑した。
「俺が似ていただけだ」
「では、なぜ毎晩店の前に?」
男は帳簿を見る。
「これを探していた」
「なぜ?」
「先生に渡すためだ」
「俺に?」
男は頷いた。
「親方は殺された」
お絹の父親は、質屋を営みながら、裏で行われていた人身売買に気づいた。
貧しい人間から借金を取り立て、返せない者を「質草」として別の商人へ売る。
それを仕切っていたのは――
奉行所の役人だった。
父親は証拠を集めた。
しかし、その途中で殺された。
「では、この帳簿が証拠か」
「はい」
男は頷いた。
「ですが、もう一冊あります」
「どこに?」
男は答えなかった。
代わりに宗十郎へ鍵を差し出した。
「その鍵です」
宗十郎は手にした。
「何の鍵だ?」
「親方が最後に残した蔵の鍵です」
その瞬間。
地下室の入口から足音が響いた。
一人。
二人。
三人。
男の顔が青ざめる。
「来た……」
宗十郎は刀に手をかけた。
「何人だ」
「分かりません」
「なら、数える必要もない」
入口から男たちが入ってくる。
先頭には、町奉行所の同心がいた。
「その帳簿を渡せ」
宗十郎は静かに言った。
「断る」
「黒川宗十郎」
同心が刀を抜く。
「お前も余計なことに首を突っ込んだな」
宗十郎は笑った。
「それが俺の仕事だ」
同心が斬りかかる。
宗十郎は刀を受け流す。
狭い地下室で激しい攻防が始まった。
一人。
二人。
三人。
宗十郎は相手の手首を打ち、足を払い、次々と倒していく。
最後に残った同心が震えた。
「なぜ……」
宗十郎は刀を突きつけた。
「死んだ男を幽霊にしたのは、お前たちだ」
「何?」
「罪を隠すために人を殺し、その家族に幽霊を見せて怯えさせる」
同心の顔が歪んだ。
「……知っていたのか」
「最初から怪しいと思っていた」
宗十郎は帳簿を掲げた。
「これで終わりだ」
翌朝。
奉行所へ帳簿が届けられた。
複数の役人と商人が捕らえられた。
そして、お絹は初めて父親の死が事故ではなかったことを知った。
夕方。
宗十郎の店。
お絹が頭を下げた。
「父は……悪人だったのでしょうか」
宗十郎は少し考えた。
「最初は、そうだったのかもしれん」
「……」
「だが途中で、自分が何をしていたのか気づいた」
宗十郎は鍵を返した。
「そして最後は、それを止めようとした」
お絹の目から涙が落ちる。
「それなら……」
「お前の父親は、最後に人を救おうとした」
お絹は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
女が帰った後。
佐吉が言った。
「先生」
「なんだ」
「結局、幽霊はいなかったんですね」
宗十郎は薬草を整理しながら答えた。
「いや」
「え?」
「死んだ人間の思いは、時々、生きている人間を動かす」
佐吉は黙った。
宗十郎は店の外を見る。
夕暮れの江戸。
人々が行き交っている。
その中に、誰にも知られず消えていく者がいる。
そして、その声を拾う者もいる。
宗十郎は黒い羽織を奥へしまった。
「今日は終わりだ」
「はい」
佐吉が戸を閉める。
だが、その直後。
戸の隙間から、一枚の紙が滑り込んできた。
佐吉が拾う。
「先生……また依頼です」
宗十郎が受け取る。
そこには、こう書かれていた。
――盗まれた仏像を取り戻してほしい。
宗十郎は紙を見つめた。
「次は仏様か」
佐吉が笑う。
「今度は幽霊が出ないといいですね」
宗十郎は立ち上がった。
「それは、行ってみなければ分からん」
夜の帳が降りる。
そしてまた一つ。
江戸の闇に、月影の仕事が始まった。




