第三話 娘を探してくれ
その日の夜。
神田の薬種屋に、一人の男が現れた。
年は五十ほど。
身なりは悪くない。
だが、顔には疲労が滲んでいる。
宗十郎の前に座ると、男は何度も口を開きかけては閉じた。
「……娘を、探していただきたい」
宗十郎は茶を置いた。
「名前は?」
「お千代です」
「年は」
「十七」
「いつ消えた?」
「五日前です」
「奉行所には?」
男は俯いた。
「届けました」
「何と言われた」
「家出だろう、と」
宗十郎は黙った。
「娘は家出するような子か?」
「絶対にありません」
男は即座に答えた。
「母親が病気で寝込んでおります。あの子は母親の面倒を見るため、毎日家に帰っていました」
「ならば、なぜ奉行所は家出と?」
男は懐から小さな包みを取り出した。
「これが、娘の部屋に落ちていました」
宗十郎が包みを開く。
中から出てきたのは、赤い組紐だった。
「見覚えは?」
「ありません」
宗十郎は組紐を指で確かめた。
高価な品ではない。
だが、結び方が普通と違う。
三重に結ばれ、その中央に小さな輪がある。
「これは誰かに結ばれたものだ」
「娘が?」
「いや」
宗十郎は首を振った。
「娘が誰かに渡したのではない。誰かが娘の手首に結んだものだ」
男の顔が青ざめた。
「では……」
「誘拐の可能性がある」
男は拳を握りしめた。
「お願いします」
「依頼料は?」
「金はありません」
「いくらある」
男は懐から財布を出した。
中には、わずかな銭しか入っていなかった。
宗十郎はそれを見る。
そして財布を閉じさせた。
「それでいい」
「え?」
「娘を連れ戻したら、それで十分だ」
男は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
その夜。
宗十郎は赤い組紐を持って町へ出た。
まず向かったのは、娘が働いていたという小さな茶屋だった。
「お千代という娘を知っているか」
店の女将は警戒した。
「何の用です?」
宗十郎は薬種屋の身分を示した。
「父親に頼まれた」
女将はしばらく黙っていた。
やがて小さな声で言った。
「……あの子、最後の日に妙な男と話していました」
「どんな男だ」
「武士でした」
「顔は?」
「分かりません」
「何を話していた?」
女将は周囲を見回した。
「聞こえたのは一言だけです」
「何と言っていた」
「西の船着場へ来い、と」
宗十郎は目を細めた。
「何時頃だ?」
「夜の八つ頃です」
西の船着場。
宗十郎は礼を言って店を出た。
だが、外へ出た瞬間。
背後から声がした。
「黒川先生」
宗十郎が振り返る。
若い男が立っていた。
薬種屋で働く佐吉だった。
「どうしてここにいる」
「先生を追ってきました」
「帰れ」
「でも――」
「今回の相手は、お前には危険だ」
佐吉は少し考えた。
「では、荷物持ちだけでも」
宗十郎はため息をついた。
「勝手にしろ」
二人は西の船着場へ向かった。
夜の川は静かだった。
船が何艘も並んでいる。
宗十郎は岸を歩きながら周囲を見る。
すると――。
一本の杭に、赤い組紐が結ばれていた。
「先生」
佐吉が声を上げる。
宗十郎は組紐を外した。
その裏には、小さな紙が挟まっている。
――娘を返してほしければ、一人で来い。
宗十郎は紙を丸めた。
「罠ですね」
「そうだ」
「どうします?」
「行く」
「一人で?」
「お前はここに残れ」
宗十郎は一人で川沿いを進んだ。
やがて、古い倉庫が見えてきた。
戸は半分開いている。
中は真っ暗だった。
「入れ」
奥から男の声がする。
宗十郎が中へ入る。
すると、一本の蝋燭に火が灯った。
その向こうに男がいた。
侍だった。
そして、その隣には――
縄で縛られたお千代がいた。
「父が探している」
「知っている」
「なぜ娘をさらった」
男は笑った。
「さらった?」
「違うのか」
「この娘は、自分からここへ来た」
お千代が首を振る。
「違います!」
男が睨む。
お千代は黙った。
宗十郎は男を見た。
「何をさせたい」
「簡単な仕事だ」
男は一枚の紙を出した。
「これを読め」
宗十郎が受け取る。
そこには、何人もの人間の名前が書かれていた。
米問屋。
商人。
町医者。
そして奉行所の役人。
「これは?」
「賄賂を受け取った者の名だ」
宗十郎は男を見る。
「なぜ俺に?」
「お前なら、この紙を江戸中にばら撒ける」
「お前がやればいい」
男は首を横に振った。
「俺はできない」
「なぜだ」
男は少し黙った。
「俺は奉行所の人間だからだ」
宗十郎の目が鋭くなる。
「同心か」
「元同心だ」
男は刀を置いた。
「三年前、上役の不正を知った」
「それで?」
「仲間に売られた」
男は苦笑した。
「家族を殺され、俺自身も罪人にされた」
お千代が口を開く。
「この人は……悪い人じゃありません」
宗十郎は黙っていた。
男は続ける。
「この紙を公にすれば、俺は殺される」
「だから娘を?」
「娘には何の恨みもない」
男は首を振った。
「ただ、誰か信頼できる人間に届ける必要があった」
宗十郎は紙を見る。
「だったら最初から俺に渡せばいい」
「お前が本当に月影なのか、確かめたかった」
宗十郎の表情が変わった。
「俺の名を知っているのか」
「江戸の裏では有名だ」
その瞬間。
外から大勢の足音が聞こえた。
男の顔が強張る。
「来たか……」
「誰だ」
「俺を追っている連中だ」
倉庫の外から声が響く。
「中にいるのは分かっている!」
「逃げ道は?」
宗十郎が尋ねる。
男は倉庫の奥を指した。
「川へ出られる」
「お千代を連れて行け」
「あなたは?」
「俺はここに残る」
男が驚く。
「なぜ?」
宗十郎は静かに笑った。
「俺は娘を返してくれと頼まれた」
宗十郎は刀を抜いた。
「だから、連れて帰る」
戸が蹴破られた。
男たちが雪崩れ込んでくる。
宗十郎は一歩前へ出た。
「ここから先へは通さん」
最初の男が斬りかかる。
宗十郎は刀を受け流した。
柄で腹を打つ。
男が倒れる。
二人目。
三人目。
次々と倒れていく。
だが、最後に入ってきた男だけは違った。
「黒川宗十郎」
宗十郎が止まる。
「俺の名を知っている?」
「もちろんだ」
男は笑った。
「月影など、とうに終わったと思っていた」
宗十郎の目が細くなる。
「なら教えてやる」
宗十郎は刀を構えた。
「月影は終わっていない」
一瞬後。
二人の刀がぶつかった。
激しい金属音が倉庫に響いた。
数度の攻防。
そして宗十郎の刃が、男の刀を弾き飛ばした。
男は膝をつく。
「なぜ……殺さない」
「死ぬほどの悪事なら、いずれ裁く」
宗十郎は刀を収めた。
「だが、娘をさらっただけなら話は別だ」
男は呆然とした。
「お前は……本当に月影なのか」
宗十郎は答えなかった。
その夜。
お千代は無事、父親のもとへ戻った。
父親は娘を抱きしめ、何度も頭を下げた。
「ありがとうございました」
宗十郎は首を横に振った。
「礼はいらない」
「ですが……」
「娘を守るのは、親の仕事だ」
父親は涙を拭った。
宗十郎はその場を去った。
翌朝。
奉行所へ一冊の帳簿が届けられた。
昨夜の男が持っていた、役人たちの不正の証拠だった。
数名の役人が取り調べを受けることになった。
そして、その日の夜。
宗十郎の薬種屋。
佐吉が店の掃除をしていると、一枚の紙が戸の隙間から差し込まれた。
「先生。また依頼です」
宗十郎が紙を見る。
そこには短く書かれていた。
――死んだはずの男が、毎晩うちの店に来ます。
宗十郎は紙を折った。
「今度は幽霊か」
佐吉が青ざめる。
「先生、怖くないんですか?」
宗十郎は薬棚から黒い羽織を取り出した。
「幽霊なら、薬は効かん」
「では、どうするんです?」
宗十郎は笑った。
「話を聞いてみる」
夜の江戸。
また一つ、奇妙な事件が始まろうとしていた。




