第二話 泣いている女
丑三つ時。
雨上がりの江戸を、黒川宗十郎は一人歩いていた。
神田で薬種屋を営む宗十郎には、夜になると別の顔がある。
人の手では裁けぬ悪を、人知れず裁く。
それが「月影」の仕事だった。
その夜、宗十郎の店を訪ねてきたのは、一人の女だった。
年は二十七、八。
質素な着物を着ている。
女は店の中へ入るなり、深々と頭を下げた。
「お願いがございます」
「何をだ」
「人を……始末してください」
宗十郎は黙って女を見た。
「誰を?」
「私の旦那様です」
「名前は?」
「黒松屋の主人、黒松屋源左衛門」
江戸でも名の知られた材木問屋だった。
宗十郎は茶を一口飲んだ。
「なぜ殺したい」
女は震える手で膝の上の着物を握った。
「妹を殺したからです」
「旦那が?」
「はい」
女は顔を上げた。
目には涙が浮かんでいる。
「三年前、妹のお菊は黒松屋で奉公しておりました」
「その妹が死んだ」
「川で死んだことになっています」
「ことになっている?」
「はい」
女は懐から古びた布を取り出した。
「妹の着物です」
宗十郎は布を受け取った。
首元の部分に、薄い赤黒い染みが残っている。
「これは血か」
「医者に見せました」
「何と言った?」
「首を強く締められた跡がある、と」
宗十郎の目が鋭くなる。
「では、殺されたのだな」
「はい」
「証拠は?」
女は首を振った。
「ありません」
「奉行所には?」
「行きました」
「どうなった」
女は笑った。
笑ったというより、諦めた顔だった。
「妹は盗みを働いて奉公先を追い出され、恥を苦にして身投げした」
宗十郎は黙った。
「そんな話を信じたのか?」
「信じていません」
「では、なぜ俺に?」
女は一枚の紙を差し出した。
「妹が死ぬ前に残したものです」
宗十郎は紙を開いた。
そこには、震えた文字で三つの言葉だけが書かれていた。
――西の蔵。
――赤い印。
――逃げて。
宗十郎は紙を折った。
「分かった」
「引き受けてくださるのですか?」
「殺すとは言っていない」
女は驚いた顔をした。
「まず真実を確かめる」
「……ありがとうございます」
「だが、条件がある」
「何でしょう」
「この件について、誰にも話すな」
女は深く頭を下げた。
「分かりました」
翌日の夜。
宗十郎は黒松屋へ向かった。
黒松屋は日本橋にある大きな材木問屋だった。
昼間なら人で溢れている。
だが、夜になると裏口は静まり返っていた。
宗十郎は屋根へ上がった。
しばらくすると、裏口が開いた。
男が二人、外へ出てくる。
どちらも刀を差している。
「今夜の分は西の蔵へ運べ」
「例の帳簿もか?」
「もちろんだ」
宗十郎の目が細くなる。
男たちは木箱を運び始めた。
宗十郎は屋根から降り、後を追った。
西の蔵。
そこには大きな赤い印が描かれていた。
女が残した紙と同じ印だった。
宗十郎は鍵を調べる。
簡単な仕掛けだった。
細い針を差し込み、鍵を外す。
中へ入る。
そこには――
大量の帳簿が積まれていた。
宗十郎は一冊を開いた。
米問屋。
呉服屋。
材木商。
そして奉行所の役人の名前。
金額まで書かれている。
賄賂の記録だった。
さらに奥には、奉公人たちの名前が並んでいる。
その中に――
お菊。
宗十郎は記録を読む。
三年前。
お菊が黒松屋の主人から命じられた仕事を拒否した。
その仕事内容は――
奉公人を別の商人へ売り渡すための手伝いだった。
お菊は拒否した。
そして、黒松屋の裏帳簿を見てしまった。
その三日後に死亡。
「なるほど……」
宗十郎は呟いた。
そこへ。
「誰だ!」
背後から声がした。
宗十郎が振り返る。
黒松屋源左衛門だった。
その手には刀。
「やはり来たか」
源左衛門が笑う。
「お前も余計なことを知りすぎたな」
「お菊を殺したのは、お前か」
「そうだと言ったら?」
「始末する」
源左衛門が刀を抜いた。
宗十郎も構える。
一瞬。
二人の間に静寂が落ちた。
源左衛門が踏み込む。
鋭い一撃。
宗十郎は身をかわす。
二撃。
三撃。
宗十郎は刀を抜かなかった。
ただ、相手の動きを避け続ける。
「どうした!」
源左衛門が叫ぶ。
「薬屋は刀を使わねえのか!」
「必要がない」
宗十郎は懐から小さな針を取り出した。
源左衛門が振り下ろした刀をかわし、手首へ針を打ち込む。
「ぐっ……!」
刀が落ちた。
宗十郎は源左衛門を床へ押さえつけた。
「お前を殺すことは簡単だ」
「なら殺せ!」
「だが、お菊が死んだ理由を江戸中に知らせる方がいい」
宗十郎は帳簿を掲げた。
「これが証拠だ」
源左衛門の顔から血の気が引いた。
「やめろ……」
「奉行所にも賄賂を渡していたな」
「……」
「だが、全員が悪党とは限らない」
宗十郎は帳簿から数枚を破り取った。
「本当に腐っている連中の名前だけ、明日の朝に表へ出す」
源左衛門が唸る。
「そんなことをしたら、お前もただでは済まんぞ」
宗十郎は立ち上がった。
「俺は月影だ」
「……月影?」
「夜の闇で悪事を隠す奴がいるなら、その闇の中から始末する」
翌朝。
日本橋の黒松屋の前に、一冊の帳簿が置かれていた。
昼になる頃には、町奉行所にも届いていた。
その帳簿によって、黒松屋の主人と複数の役人が捕らえられた。
お菊の死も、三年ぶりに再調査されることになった。
そしてその日の夕方。
宗十郎の店に、一人の女が訪れた。
あの依頼人だった。
「妹の墓に、花を供えてきました」
宗十郎は黙って薬草を並べている。
「先生」
「なんだ」
「ありがとうございました」
宗十郎は女を見た。
「礼はいらん」
「ですが……」
「お前の妹は、盗人ではなかった」
女の目から涙が落ちた。
「はい」
「それだけ覚えておけ」
女は深く頭を下げ、店を出ていった。
宗十郎はその背中を見送った。
しばらくすると、佐吉が店の奥から顔を出した。
「先生」
「なんだ」
「また依頼です」
「今度は何だ」
佐吉は一枚の紙を差し出した。
宗十郎が開く。
そこには一言だけ。
――娘を探してくれ。
宗十郎は紙を折った。
そして、いつものように薬棚の奥から黒い羽織を取り出した。
「話を聞こう」
夜の帳が、江戸の町を包み始めていた。
月影の仕事は、今夜も始まる。




