第一話 死者が残した「赤い印」
第一話 死者が残した「赤い印」
丑三つ時。
江戸の町から、人の気配が消えていた。
雨上がりの道に、月がぼんやりと浮かんでいる。
濡れた石畳を、一人の男が歩いていた。
黒い着物。
深くかぶった笠。
腰には刀を一本。
男の名は――黒川宗十郎。
神田で小さな薬種屋を営む男である。
無口で、愛想がない。
客に薬を売り、金を受け取り、余計なことは一切話さない。
町の人間から見れば、ただの変わり者の薬売りだった。
だが。
夜の江戸では、別の名を持っていた。
――月影。
人の手では裁けぬ悪を、人知れず裁く者たち。
その存在を知る者は少ない。
そして、月影に依頼をする者は――
決まって、普通の人間には頼めない事情を抱えていた。
三日前。
宗十郎の店に、一人の女が訪れていた。
三十前後。
粗末な着物。
化粧もしていない。
だが、目だけは妙に澄んでいた。
女は店に入るなり、頭を下げた。
「お願いがあります」
宗十郎は薬草を刻む手を止めなかった。
「何だ」
「人を探していただきたいのです」
「奉行所へ行け」
「行きました」
女は笑った。
いや。
笑ったように見えただけだった。
「ですが……何もしてくれませんでした」
宗十郎は初めて女を見た。
「誰を探している」
女は唇を震わせた。
「弟を殺した男です」
店内が静かになった。
「名前は?」
「分かっています」
「誰だ」
女は答えた。
「町奉行所の同心です」
宗十郎の手が止まった。
「証拠は?」
「ありません」
「なら、俺にもできぬ」
女はしばらく俯いていた。
やがて懐から、一枚の紙を取り出した。
「ですが……弟は死ぬ直前、これを残しました」
宗十郎が紙を見る。
震えた筆跡で、たった一行。
――西の蔵。赤い印。
宗十郎の目が細くなった。
「これだけか」
「はい」
「他には?」
「何も」
女は懐から、もう一つの物を取り出した。
古びた煙管だった。
「これが、弟の形見です」
宗十郎は煙管を受け取った。
そして指が止まった。
煙管の根元に、小さな傷が三つ。
その印を、宗十郎は知っていた。
昔、世話になった男が使っていた煙管にも、同じ傷があった。
男の名は――
月影の初代頭領。
すでに十年前に死んでいる。
「……どこで、これを?」
「弟の部屋にありました」
宗十郎は煙管を握りしめた。
何かが繋がり始めている。
「分かった」
「本当ですか?」
「ああ」
宗十郎は煙管を懐へしまった。
「調べる」
女は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は要らん」
宗十郎は女を見なかった。
「真実が欲しいなら、それだけでいい」
翌晩。
宗十郎は一人、江戸の西へ向かっていた。
目的地は――西の蔵。
古い蔵が並ぶ一角だった。
だが。
蔵の前には、二人の男が立っていた。
どちらも同心。
宗十郎を見ると、口元を歪めた。
「おや」
一人が笑う。
「黒川先生じゃねえか」
「こんな夜更けに何してる?」
宗十郎は答えない。
「薬売りか?」
「そうだ」
宗十郎は懐から薬包を取り出した。
「眠り薬だ」
二人の同心が顔を見合わせる。
「へえ」
「飲めば、二刻は起きない」
「そいつは便利だな」
笑い声。
次の瞬間。
宗十郎の指が動いた。
薬包が破れる。
白い粉が夜気に舞った。
「な――」
「げほっ!」
「何をしやがった!」
二人の同心が膝をつく。
宗十郎は無言で近づいた。
懐から細い針を取り出し、二人の首筋へ当てる。
「安心しろ」
宗十郎は言った。
「死なない」
「……!」
「少し眠るだけだ」
二人が倒れる。
宗十郎は蔵の鍵を拾った。
そして中へ入った。
蔵の中には、帳簿が山のように積まれていた。
米。
材木。
呉服。
酒。
そして人の名前。
宗十郎は一冊を開いた。
金額。
日付。
受け取った役人の名前。
さらにページをめくる。
町奉行所の同心。
与力。
商人。
豪商。
江戸の裏側で繋がった人間たちの名前が並んでいた。
「……賄賂帳か」
宗十郎は呟いた。
弟は、これを見つけたのだ。
そして消された。
そのときだった。
背後から声がした。
「そこまでだ」
宗十郎は振り返らなかった。
「黒川」
刀が鞘から抜かれる音。
「お前も、余計なことを知りすぎた」
宗十郎は帳簿を閉じた。
「榊原玄馬」
「……知っていたか」
「弟を殺した男の顔くらいはな」
同心――榊原玄馬が笑った。
「だったら話は早い」
刀が振り下ろされる。
宗十郎は紙一重で避けた。
柱に刀が食い込む。
「どうした!」
玄馬が叫ぶ。
「薬売りごときが!」
宗十郎は刀を抜かなかった。
ただ、懐から一本の細い針を取り出した。
「俺はな」
静かな声だった。
「悪党を斬るのが好きなわけじゃない」
玄馬が再び踏み込む。
宗十郎は半歩だけ横へ動いた。
「ただ――」
針が玄馬の手首へ突き刺さる。
刀が落ちた。
「死んだ者の声を、無かったことにするのが嫌いなんだ」
玄馬が膝をつく。
「……月影……」
宗十郎の目が鋭くなる。
「その名を知っているのか」
玄馬は笑った。
「遅いんだよ……」
「何?」
「お前たちは……もう……」
玄馬はそこで意識を失った。
宗十郎はその言葉の意味を考えた。
そして帳簿を持って、蔵を出た。
翌朝。
奉行所の門前に、一冊の帳簿が置かれていた。
誰が置いたのか。
誰にも分からない。
だが、その日の昼には――
江戸中を騒がせる大事件になった。
悪徳同心。
豪商。
賄賂。
冤罪。
そして消された人間たち。
すべてが記されていた。
榊原玄馬の姿は、その日を境に江戸から消えた。
神田。
いつもの薬種屋。
宗十郎は何事もなかったかのように薬草を並べていた。
そこへ若い男が駆け込んでくる。
「黒川先生!」
「何だ」
「妙な客が来ています」
「どんな客だ?」
若者は声を潜めた。
「泣いています」
「女か?」
「はい」
「何と言っている?」
若者は宗十郎を見た。
「旦那様を――」
一拍。
「殺してほしい、と」
宗十郎は手を止めた。
そして、店の奥にある古い灯りを一つ点けた。
「……話を聞こう」
外では、また雨が降り始めていた。
江戸の闇は深い。
そして月影の仕事は、終わらない。




