第二十話 十七年前の真実
翌朝。
宗十郎は、いつもより早く店を開けた。
だが、薬を買いに来る客の声も、町を行き交う人々の声も、どこか遠くに聞こえていた。
机の上には、一枚の手紙。
父――黒川宗兵衛が残した手紙だった。
宗十郎は何度も読み返していた。
――人を裁くことは、誰かを憎むことではない。
――悪を止めることだ。
「……宗十郎さん」
佐吉が声をかけた。
「はい」
「今日は……行くんですよね」
「ああ」
「俺も行きます」
「危険だ」
「昨日も聞きました」
佐吉は苦笑した。
「それでも行きます」
宗十郎は佐吉を見た。
そして、小さく笑った。
「分かった」
二人は準備を始めた。
その時だった。
店の戸が開いた。
入ってきたのは、昨日の老人だった。
「黒川さん」
「どうしました?」
老人は息を切らしていた。
「藤吉が……」
「藤吉が?」
「殺された」
佐吉が顔を強張らせる。
「どこで?」
「浅草の河原です」
宗十郎はすぐに店を出た。
浅草の河原。
藤吉は、橋の下で倒れていた。
だが、血はほとんどない。
宗十郎が屈み込む。
「殺されたのは?」
「昨夜だと思われます」
近くにいた同心が答えた。
「身元は?」
「分かりません」
宗十郎は藤吉の懐を探った。
何もない。
だが、袖口に小さな紙が挟まっていた。
開く。
――黒川宗十郎へ。
その下に一行。
――お前の父は、すべてを知っていた。
宗十郎は紙を握った。
「……やはり」
佐吉が尋ねる。
「何か分かったんですか?」
「ああ」
宗十郎は立ち上がった。
「父は、お澄さんを殺した連中の証拠を集めていた」
「それが十七年前の事件?」
「そうだ」
宗十郎は周囲を見回した。
「だが、父は一人ではなかった」
「誰か協力者が?」
「ああ」
宗十郎は藤吉の遺体を見る。
「藤吉だ」
佐吉が驚く。
「藤吉が?」
「十七年前、父の協力者だったんだ」
藤吉は父と共に証拠を集めていた。
そして、お澄も同じ商人を追っていた。
その商人は、米や薬を買い占め、価格を操作していた。
役人に金を渡し、逆らう商人を潰し、邪魔になった者を消していた。
そして、その裏には――
「役人がいた」
宗十郎は言った。
「町奉行所の中に、金を受け取っていた者がいた」
佐吉が息を呑む。
「十七年前に?」
「ああ」
宗十郎は頷く。
「だから証拠が必要だった」
だが、証拠を集めていたお澄が殺された。
父も殺された。
そして藤吉は生き残った。
「では、左手に火傷のある男は?」
「分からない」
宗十郎は答えた。
「だが、奴も十七年前の事件に関わっている」
その夜。
宗十郎と佐吉は、お澄が殺された場所へ向かった。
そこは、神田の外れにある古い倉庫だった。
今では使われていない。
だが、壁には古い傷が残っていた。
三日月。
宗十郎は傷に手を当てる。
「ここだ」
「ここで、お澄さんが?」
「ああ」
二人が中へ入る。
床には古い血痕が残っていた。
その奥に、小さな地下室がある。
宗十郎が扉を開けた。
中には大量の帳面があった。
佐吉が目を見開く。
「これ……」
「証拠だ」
十七年前。
お澄。
宗兵衛。
藤吉。
三人が集めた証拠。
商人たちへの賄賂。
役人への金。
殺された者の名前。
すべてが残っていた。
そして、一番奥に一冊の帳面があった。
表紙には――
「黒帳」
とだけ書かれている。
宗十郎が開く。
そこには、最上段に一人の名前があった。
――榊原玄馬。
佐吉が声を失った。
「榊原……」
宗十郎も黙っていた。
十年前。
宗十郎が最初に追い詰めた男。
だが、その下にはさらに名前がある。
榊原の上にいる人物。
その名前を見た瞬間、宗十郎は息を止めた。
「……そんな」
佐吉が尋ねる。
「誰です?」
宗十郎は答えなかった。
帳面の最後のページ。
そこには一人の名前。
――藤堂兵衛。
佐吉が首を傾げる。
「誰ですか?」
「十七年前の町奉行だ」
「……」
「そして、今も生きている」
その瞬間。
背後から拍手が聞こえた。
パチ。
パチ。
パチ。
宗十郎と佐吉が振り向く。
入口に、一人の老人が立っていた。
上質な着物。
白髪。
穏やかな笑顔。
「よく見つけたな」
宗十郎の目が鋭くなる。
「藤堂兵衛」
老人は笑った。
「久しぶりだな、黒川宗十郎」
「私はお前を知らない」
「そうだろう」
藤堂はゆっくりと歩いてくる。
「お前が十歳の時、私はお前の父を殺した」
佐吉が息を呑む。
宗十郎は動かなかった。
「なぜ?」
「証拠を集めていたからだ」
「お澄も?」
「そうだ」
「藤吉も?」
「……あの男は逃げた」
藤堂は笑った。
「だが、十七年後に戻ってきた」
宗十郎は拳を握る。
「では、今回の事件もお前が?」
「そうだ」
「なぜ私を呼んだ」
藤堂は首を傾げた。
「簡単な話だ」
そして、静かに言った。
「月影を終わらせるためだ」
宗十郎は黙っていた。
藤堂は続ける。
「お前は十七年間、私が消し損ねた者たちを追ってきた」
「……」
「榊原玄馬」
「……」
「越後屋宗兵衛」
「……」
「そして、今回の者たち」
藤堂は笑った。
「すべて、私が仕掛けた」
佐吉が叫ぶ。
「じゃあ、今までの事件も!」
「すべてではない」
藤堂は答えた。
「だが、月影という存在を表に引きずり出すために利用した」
宗十郎の目が変わる。
「私を殺したかったのか」
「違う」
藤堂は首を振る。
「お前に自分で月影を捨てさせたかった」
「……なぜ?」
藤堂は一歩近づいた。
「お前は人を救いすぎる」
「……」
「だから私は思った」
藤堂の笑顔が消える。
「お前が救えなかった人間を、もう一度見せてやればいい」
宗十郎の脳裏に、お澄の顔が浮かぶ。
父の顔。
十七年前の記憶。
「それで、私を壊すつもりか」
「そうだ」
藤堂は答えた。
「だが、もう一つ理由がある」
「何だ」
藤堂は佐吉を見た。
「お前の大切なものを奪えば、月影は終わる」
佐吉の顔が強張る。
宗十郎が前へ出る。
「佐吉には手を出すな」
初めてだった。
宗十郎の声に、明確な怒りが混じった。
藤堂は笑った。
「そうだ」
「何が?」
「それだ」
藤堂は宗十郎を指差した。
「お前はもう、一人ではない」
そして、懐から小さな紙を取り出した。
「明日の夜、最後の場所へ来い」
「どこだ」
「十七年前、お前の父が死んだ場所だ」
藤堂は背を向ける。
「そこで、すべて終わる」
「待て」
宗十郎が呼び止める。
藤堂は振り返らない。
「宗十郎」
その声だけが響く。
「お前は最後に選べ」
「何を?」
「月影として生きるか」
一拍。
「黒川宗十郎として生きるか」
藤堂は暗闇へ消えた。
静寂。
佐吉が宗十郎を見る。
「……どうするんです?」
宗十郎はしばらく答えなかった。
やがて、静かに口を開く。
「明日、終わらせる」
「月影を?」
「ああ」
宗十郎は父の手紙を懐から取り出した。
――人を裁くことは、誰かを憎むことではない。
――悪を止めることだ。
宗十郎は手紙を畳んだ。
「月影は、人を殺すためにあるんじゃない」
そして、佐吉を見る。
「なら、最後の仕事を終えたら――」
宗十郎は少しだけ笑った。
「月影を終わらせてもいいのかもしれないな」
夜空には、満月が浮かんでいた。
十七年間。
江戸の闇を歩き続けた男がいた。
その名は――月影。
そして明日、その名が最後を迎える。




