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月影始末人 黒川宗十郎  作者: レモンティー


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最終話 月影の終わり

夜。

神田の町は、静まり返っていた。

宗十郎は一人、古い寺へ向かっていた。

十七年前。

父――黒川宗兵衛が死んだ場所。

そして、月影が始まった場所。

今日は佐吉を連れていない。

藤堂兵衛との約束だった。

「一人で来い」

だが、宗十郎には分かっていた。

藤堂が本当に恐れているのは、自分一人ではない。

自分の後ろにいる人間たちだ。

佐吉。

これまで助けた人々。

そして、月影という名前を知った者たち。

だからこそ、宗十郎は決めていた。

今夜ですべて終わらせる。

寺の境内へ入る。

月明かりが石畳を照らしていた。

「来たか」

声がした。

藤堂兵衛だった。

その後ろには、男が三人いる。

そして、その中に――

左手に火傷のある男がいた。

「お前は……」

宗十郎が見る。

男は黙っていた。

藤堂が言う。

「こいつは、お前の父を殺した男だ」

宗十郎の目が細くなる。

「名前は?」

「玄次郎」

男は短く答えた。

「十七年前、俺は藤堂の命令で、お前の父親を殺した」

宗十郎は刀に手をかけなかった。

「なぜ、今まで黙っていた」

「怖かった」

玄次郎は答えた。

「十七年前、俺には家族がいた」

「……」

「逆らえば、家族も殺されると言われた」

藤堂が笑う。

「情けない男だ」

玄次郎は拳を握った。

「だが、十七年経っても忘れられなかった」

「何を?」

「お前の父親が、最後に言った言葉だ」

宗十郎は黙った。

玄次郎が続ける。

「俺に向かって言った」

一度、目を閉じる。

「――息子には手を出すな」

宗十郎の表情が変わった。

「父が……?」

「ああ」

玄次郎は頷いた。

「自分が殺されると分かっていても、お前のことだけを心配していた」

宗十郎は空を見上げた。

月が出ている。

幼い頃。

熱を出した自分の額に手を置いてくれた父。

そして、母。

記憶の中にある、二人の手。

宗十郎は目を閉じた。

「……そうだったのか」

藤堂が苛立ったように言う。

「感傷は終わりだ」

宗十郎を見る。

「お前の父は死んだ」

「……」

「お澄も死んだ」

「……」

「藤吉も死んだ」

藤堂は笑った。

「十七年間、お前はその死を背負ってきた」

「違う」

宗十郎が言った。

藤堂の笑顔が止まる。

「何?」

「私は、背負っていたんじゃない」

宗十郎は藤堂を見た。

「忘れないようにしていただけだ」

藤堂が眉をひそめる。

「何を言っている」

「死んだ人間を忘れなければ、その人間が残したものを守れる」

宗十郎は静かに続けた。

「父の言葉も」

「お澄の願いも」

「これまで助けた人たちの明日も」

そして、宗十郎は刀から手を離した。

「だから、お前を殺すつもりはない」

藤堂が笑った。

「綺麗事を!」

男たちが一斉に動いた。

宗十郎は身を翻した。

一人目の腕を取り、地面へ倒す。

二人目の刀を受け流す。

三人目の足を払う。

だが、玄次郎だけは動かなかった。

藤堂が叫ぶ。

「何をしている!」

玄次郎は静かに答えた。

「もう終わりだ」

「裏切るのか!」

「十七年前から、ずっと後悔していた」

玄次郎は宗十郎を見る。

「今日で終わらせる」

藤堂は懐から短刀を取り出した。

宗十郎へ向かって走る。

「死ね!」

宗十郎は避けた。

藤堂は足を滑らせ、地面に倒れた。

その時。

寺の外から大勢の足音が聞こえてきた。

「動くな!」

同心たちだった。

その先頭には――

佐吉がいた。

「宗十郎さん!」

宗十郎が目を丸くする。

「……なぜ来た」

「一人で行けって言われてませんでしたから」

佐吉は笑った。

「それに、俺はもう月影の仕事を知っています」

藤堂が叫ぶ。

「貴様ら、何を!」

同心たちが藤堂を取り囲む。

宗十郎は佐吉を見る。

「どうやって?」

「昼間のうちに、これまでの証拠を全部持って奉行所へ行きました」

佐吉は懐から帳面を出す。

「十七年前の証拠も全部です」

藤堂の顔から笑みが消えた。

「馬鹿な……」

「もう逃げられません」

宗十郎が言った。

藤堂は周囲を見回した。

「私は……」

「終わりです」

藤堂はその場に崩れ落ちた。

長い年月をかけて築いたものが、音を立てて崩れていく。

やがて、夜は静かになった。

すべてが終わった。

十七年前から続いていた事件も。

藤堂兵衛の罪も。

父の死の真相も。

そして――

月影の最後の仕事も。

数日後。

神田の薬種屋。

宗十郎は、いつものように薬草を整理していた。

佐吉が店の奥から顔を出す。

「宗十郎さん」

「何だ?」

「これからどうするんです?」

「薬を売る」

「それだけ?」

「それだけだ」

佐吉は笑った。

「月影は?」

宗十郎はしばらく黙った。

そして、机の引き出しから一つの小さな印を取り出した。

月の形をした印。

十七年間、使ってきたものだった。

宗十郎はそれを箱に入れた。

「終わりだ」

「本当に?」

「ああ」

「寂しくないですか?」

宗十郎は少し考えた。

「……寂しいな」

佐吉が意外そうな顔をする。

「そうなんですか?」

「十七年も続けてきたからな」

宗十郎は笑った。

「だが、終わっていいんだ」

その夜。

宗十郎は一人、母の簪を取り出した。

月明かりが簪を照らす。

「母さん」

静かに呟く。

「終わったよ」

もちろん返事はない。

だが、不思議と寂しくなかった。

母の手。

父の言葉。

助けた人たちの笑顔。

泣いていた人たち。

そして佐吉。

すべてが宗十郎の中に残っている。

翌朝。

店を開ける。

一人の少女がやってきた。

「薬をください」

「どうした?」

「お母さんが熱を出して……」

宗十郎は少女に笑いかけた。

「分かった」

薬を調合する。

少女はお金を差し出した。

だが、宗十郎は首を振った。

「今日はいい」

「でも……」

「早くお母さんのところへ持っていってあげなさい」

少女は頭を下げた。

「ありがとうございます!」

少女が走っていく。

佐吉がそれを見ていた。

「……結局、やっていることは変わらないですね」

宗十郎は笑った。

「そうだな」

「月影じゃなくても、人は助けられる」

「ああ」

宗十郎は店の外を見る。

朝の光が、江戸の町を照らしていた。

「月の下で悪を追う必要はない」

宗十郎は言った。

「これからは、日の当たる場所で人を助ければいい」

佐吉が笑った。

「それなら俺も手伝います」

「薬の調合は覚えたか?」

「……これからです」

「では、まず薬草の名前からだ」

「ええっ」

二人の声が店に響く。

その日の夜。

宗十郎は最後に一度だけ、月の印が入った箱を開けた。

中には、十七年間使ってきた月影の印。

そして、母の簪。

宗十郎は二つを並べて置いた。

「ありがとう」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

父かもしれない。

母かもしれない。

お澄かもしれない。

これまで月影に依頼した人たちかもしれない。

そして――

十七年間の自分自身かもしれない。

宗十郎は箱を閉じた。

もう、開けることはない。

外には満月が浮かんでいる。

かつて宗十郎は、その月の下で悪を追った。

だが今は違う。

月はただ、静かに江戸の町を照らしている。

人々が眠る家を。

明日を待つ子供たちを。

大切な人を想う人々を。

宗十郎は月を見上げた。

そして、静かに笑った。

――月影は、終わった。

けれど人を救うことは、終わらない。

それが、黒川宗十郎の選んだ道だった。

江戸の夜に、月が浮かぶ。

もうそこに、始末人はいない。

ただ一人の薬種商が、明日の誰かを救うために、

静かに朝を待っていた。

――完――

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