第十九話 救えなかった男
翌朝。
神田の町は、いつもと変わらない朝を迎えていた。
店先には薬草が並び、通りを行き交う人々の声が聞こえる。
だが、宗十郎の中では何かが変わっていた。
十七年前。
月影を始めたばかりの頃。
そして、自分が救えなかった男。
宗十郎は古い記録を机の上に並べていた。
「これで全部ですか?」
佐吉が尋ねる。
「いや」
宗十郎は首を振った。
「一つだけ足りない」
「何が?」
「私自身の記憶だ」
宗十郎は古い帳面を開いた。
十七年前。
お澄から依頼を受けた。
夫が人を殺している。
そう聞いて、宗十郎は調べた。
だが、証拠が見つからなかった。
そして翌日。
お澄は依頼を取り下げた。
その翌日――殺された。
「おかしいですよね」
佐吉が言った。
「何が?」
「宗十郎さんが依頼を断った理由です」
宗十郎は顔を上げた。
「証拠がなかったからですよね」
「ああ」
「でも、昨日の帳面には証拠があった」
宗十郎は黙った。
「だったら、お澄さんは宗十郎さんに証拠を渡す前に殺されたことになります」
「……そうだ」
「では、その証拠は誰が持っていたんです?」
宗十郎の目が細くなった。
帳面。
お澄。
十七年前。
そして、昨日の藤吉。
「藤吉に会う」
宗十郎は立ち上がった。
二人は浅草へ向かった。
だが、昨夜の芝居小屋には誰もいなかった。
舞台の上にも、客席にも、人の気配はない。
佐吉が周囲を見回す。
「逃げたんでしょうか」
「いや」
宗十郎は床を見た。
新しい足跡がある。
「今朝まで誰かいた」
足跡は裏口へ続いていた。
二人は外へ出た。
路地を進む。
そして、古い長屋の前で足跡が消えた。
戸を叩く。
返事はない。
宗十郎が戸を開ける。
中には一人の老人がいた。
布団の上に横たわっている。
「藤吉は?」
宗十郎が尋ねると、老人は怯えた顔をした。
「……あの男なら、さっき出ていった」
「どこへ?」
老人は答えなかった。
宗十郎が部屋を見る。
壁に、紙が貼られている。
そこには名前が並んでいた。
一つ。
二つ。
三つ。
その中に――
「これは……」
佐吉が声を失った。
宗十郎は紙を見つめた。
そこには、過去の事件で月影に依頼した者たちの名前が書かれていた。
榊原玄馬。
越後屋宗兵衛。
そして――
お澄。
さらに、最近の事件の依頼人たちの名前まである。
「どうして、こんなものが……」
佐吉が呟く。
宗十郎は答えなかった。
その時、老人が震える声で言った。
「月影を追っているんだ」
「誰が?」
「十七年前からずっとだ」
老人は宗十郎を見た。
「お前さんが月影だと、ずっと知っていた」
「……なぜ?」
「十七年前、俺はお澄さんの家の隣に住んでいた」
老人はゆっくりと話し始めた。
「お澄さんは殺される前の夜、男と話していた」
「どんな男です?」
「顔は見えなかった」
「特徴は?」
「左手に火傷があった」
宗十郎と佐吉は顔を見合わせた。
昨夜の男。
老人は続ける。
「だが、もう一人いた」
「もう一人?」
「ああ」
「そいつが、お澄さんに言っていた」
老人は震えながら口にした。
「月影に頼むな」
宗十郎の表情が変わった。
「そして、その男は翌朝、お澄さんの家から出てきた」
「顔は?」
「見た」
老人は宗十郎を見た。
「だが、言いたくない」
「なぜ?」
「怖いんだ」
老人は布団の下から一枚の紙を取り出した。
「これを見れば分かる」
宗十郎が受け取る。
紙には、一人の名前が書かれていた。
――黒川宗十郎。
その下に、別の名前。
――黒川宗兵衛。
「……誰です?」
佐吉が尋ねる。
宗十郎の顔から血の気が引いた。
「私の父だ」
佐吉が絶句した。
「宗十郎さんの……父親?」
「ああ」
宗十郎は紙を握りしめた。
「私の父は、私が十歳の時に死んだ」
「病気ですか?」
「そう聞かされていた」
老人が口を開いた。
「違う」
宗十郎が顔を上げる。
「あなたの父親は、お澄さんを殺した連中を追っていた」
「……」
「そして、そのことを知った連中に――」
老人は言葉を止めた。
「殺された」
宗十郎は何も言わなかった。
父親の記憶。
病床にいた姿。
最後に交わした言葉。
――人を疑うな。
――だが、悪を見つけたら目を背けるな。
あれは、父が死ぬ直前に言った言葉だった。
「宗十郎さん」
佐吉が心配そうに呼ぶ。
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
宗十郎は立ち上がった。
「帰るぞ」
店へ戻る途中。
宗十郎は一度も口を開かなかった。
店に着く。
戸を開ける。
すると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
誰も入った形跡はない。
紙を開く。
――父親の死について知りたければ、今夜一人で来い。
場所は――
「……」
宗十郎は紙を握った。
佐吉が尋ねる。
「どこです?」
宗十郎は答えた。
「私の父が死んだ場所だ」
夜。
宗十郎は一人で町を歩いていた。
佐吉には店に残るよう言った。
向かった先は、神田の外れにある古い寺だった。
十七年前。
宗十郎の父、黒川宗兵衛が倒れていた場所。
宗十郎は寺の境内へ入った。
月明かりが石畳を照らしている。
「来たか」
声がした。
木の陰から、男が現れる。
左手に火傷。
昨日の男だった。
「お前の父は、ここで殺された」
「誰に?」
男は答えなかった。
代わりに、古い小箱を投げてよこした。
宗十郎が受け取る。
蓋を開ける。
中には一枚の手紙が入っていた。
宗十郎は震える手で開いた。
そこには、父の字があった。
――宗十郎へ。
その一行を見た瞬間。
十七年間、一度も流さなかった涙が、宗十郎の頬を伝った。
――もし私に何かあったなら。
――お前は、月影を続けるな。
宗十郎は息を止めた。
その下には、さらに続きがあった。
――人を裁くことは、誰かを憎むことではない。
――悪を止めることだ。
宗十郎は目を閉じた。
父の声が蘇る。
「……父さん」
男が言った。
「それがお前の月影の始まりだ」
宗十郎は手紙を握った。
「違う」
男が眉をひそめる。
「何?」
宗十郎は顔を上げた。
「私は、父の仇を討つために月影になったんじゃない」
静かな声だった。
「父が残した言葉を守るためだ」
男は黙った。
「だから私は、十七年前の事件を終わらせる」
宗十郎は立ち上がった。
「お前の正体も、その黒幕も、全部明らかにする」
男は笑った。
「なら、明日の夜だ」
「どこで?」
男は月を指差した。
「十七年前、お澄が殺された場所」
そう言って、闇の中へ消えた。
宗十郎は一人、月を見上げた。
父の手紙を胸にしまう。
そして呟いた。
「……明日で終わらせる」
十七年前の事件。
父の死。
お澄の殺害。
そして月影。
すべてが一本につながった。
残された時間は――
あと一日だった。




