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月影始末人 黒川宗十郎  作者: レモンティー


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18/21

第十八話 十七年前の依頼

翌朝。

神田の町には、昨日までの雨が嘘のような青空が広がっていた。

宗十郎は、店の奥にある古い木箱を取り出していた。

佐吉が隣から覗き込む。

「それ、何です?」

「昔の記録だ」

「十七年前の?」

「ああ」

木箱の中には、古びた紙が何枚も入っていた。

宗十郎は一枚ずつ取り出していく。

「月影を始めたばかりの頃の記録だ」

「始めたばかり……」

佐吉は少し驚いた。

「宗十郎さんにも、そんな頃があったんですね」

「私だって最初から何でもできたわけじゃない」

宗十郎は苦笑した。

そして、一枚の紙を取り出した。

紙には、短い文章が書かれている。

――女からの依頼。

――夫が人を殺している。

――証拠を探してほしい。

その下には、宗十郎自身の字で書かれた言葉があった。

「依頼人は?」

佐吉が尋ねる。

「名前は、お澄」

「昨日の女性のお姉さんですね」

「ああ」

宗十郎は紙を見つめた。

「だが、私はこの依頼を断っている」

「どうしてです?」

「証拠がなかったからだ」

当時の宗十郎は、今より若かった。

月影という名前も、まだ江戸の一部でしか知られていなかった。

「お澄さんは、夫が人を殺したと言った」

宗十郎は続けた。

「だが、誰を殺したのか、いつ殺したのか、何も分からなかった」

「それだけで断ったんですか?」

「いや」

宗十郎は一枚の紙を見せた。

「その翌日、お澄は依頼を取り下げた」

そこには一言。

――もう大丈夫です。

それだけだった。

「そして、その翌日に殺された」

佐吉は黙った。

宗十郎は紙をしまう。

「だから私は、あの事件を自分の失敗だと思っていた」

「……宗十郎さん」

「もしあの時、依頼を受けていれば」

宗十郎は静かに言った。

「お澄は死ななかったかもしれない」

佐吉は何も言えなかった。

その時。

店の戸が開いた。

「黒川さん」

若い男が入ってきた。

年は三十ほど。

町人の身なりをしている。

「薬をお願いしたい」

「どんな症状です?」

「父が昨夜から腹を痛めていまして」

宗十郎は男を見た。

「名前は?」

「……清吉です」

「父上の名前は?」

男は少しだけ間を置いた。

「弥五郎です」

宗十郎は薬を調合した。

清吉は薬代を置き、頭を下げる。

「ありがとうございます」

そして店を出ていった。

佐吉が口を開いた。

「……普通のお客さんですよね」

「そうだな」

宗十郎は男が置いていった金を見た。

その下に、紙が一枚挟まっている。

佐吉が目を見開いた。

「これ……」

宗十郎が紙を開く。

――十七年前のことを知りたければ、今夜、浅草の古い芝居小屋へ来い。

宗十郎は紙を握った。

「やっぱり来たか」

「罠じゃないですか?」

「そうだろうな」

「だったら行かないほうが……」

「いや」

宗十郎は立ち上がった。

「行く」

「どうして?」

「向こうが私を呼んでいる」

宗十郎は懐に小刀を入れた。

「なら、こちらも顔を見に行く」

夜。

浅草の外れに、使われなくなった芝居小屋があった。

かつては大勢の客で賑わった場所だが、今では戸も壊れ、舞台には埃が積もっている。

宗十郎が中へ入る。

「誰かいるか」

返事はない。

奥へ進む。

すると、舞台の上に一人の男が立っていた。

昼間、薬を買いに来た男だった。

「やはり来ましたか」

「お前は何者だ」

男は笑った。

「清吉と申します」

「本当の名は?」

男は少し黙った。

そして答えた。

「藤吉です」

「藤吉」

「はい」

宗十郎は男を見据えた。

「十七年前の事件を知っているな」

「知っています」

「お澄を殺した男も?」

藤吉は首を振った。

「それは知りません」

「なら、何を知っている」

藤吉は懐から古い帳面を取り出した。

「これを」

宗十郎が受け取る。

表紙には何も書かれていない。

中を開く。

そこには十七年前の記録が並んでいた。

名前。

金額。

日付。

そして、一番最後に――

お澄。

宗十郎の目が止まった。

「これは……」

「十七年前、お澄さんが殺される前に集めていた証拠です」

「誰の証拠だ」

「ある商人のものです」

藤吉は答えた。

「その商人は、役人に金を渡していました」

「それだけなら珍しくない」

「違います」

藤吉の声が低くなる。

「人を殺していました」

宗十郎は帳面を閉じた。

「お澄は、その商人を追っていたのか」

「はい」

「では、なぜ私に依頼した?」

藤吉は答えなかった。

しばらくして、ぽつりと言った。

「お澄さんは、自分一人では勝てないと思ったからです」

「……」

「だから月影を探した」

宗十郎は目を伏せた。

「だが、私は依頼を断った」

「違います」

藤吉が言った。

「お澄さんは、依頼を取り下げたんじゃありません」

宗十郎が顔を上げる。

「何?」

「取り下げさせられたんです」

その瞬間。

背後で物音がした。

宗十郎が振り向く。

誰もいない。

だが、舞台の上から藤吉の声が聞こえた。

「十七年前、お澄さんはここに連れてこられました」

「ここに?」

「そして、ある男に言われた」

藤吉は震える手で帳面を握った。

「月影に頼むな、と」

宗十郎の目が鋭くなる。

「誰だ」

「それが……」

藤吉が口を開いた。

その瞬間。

矢が飛んできた。

宗十郎は身を翻した。

矢は柱に突き刺さる。

「逃げろ!」

藤吉が叫ぶ。

だが、宗十郎は動かなかった。

舞台の奥。

暗闇から男が一人現れる。

左手には、火傷の跡。

宗十郎はその手を見た。

「……お前か」

男は笑った。

「久しぶりだな、月影」

宗十郎の表情が変わる。

「私を知っているのか」

「もちろんだ」

男はゆっくり歩いてくる。

「十七年前から、ずっと見ていた」

「お澄を殺したのも、お前か」

「違う」

男は首を振った。

「私は殺していない」

「では誰だ」

男は答えなかった。

代わりに、宗十郎へ一枚の紙を投げた。

そこには、たった一つの名前が書かれていた。

――黒川宗十郎。

その下には、別の文章。

――お前が月影になった理由を、知りたくないか。

宗十郎は紙を握りしめた。

男は笑った。

「十七年前、お前は一人の男を救えなかった」

「……」

「だが、それが月影の始まりだった」

男は暗闇へ消えていった。

宗十郎は追わなかった。

追う必要がなかった。

今夜、初めて分かった。

十七年前の事件は、単なる殺人事件ではない。

あの事件こそが――

自分が月影になった、本当の始まりだったのだ。

店へ戻ると、佐吉が待っていた。

「どうでした?」

宗十郎はしばらく黙っていた。

そして答えた。

「佐吉」

「はい」

「明日から、昔の事件を全部調べ直す」

「……全部?」

「ああ」

宗十郎は月を見上げた。

「十七年前に、何があったのか」

その声は静かだった。

だが、いつもの宗十郎とは違っていた。

怒りではない。

憎しみでもない。

ただ――

長い間、胸の奥に残っていた後悔を終わらせようとしている男の声だった。

佐吉は宗十郎の隣に立った。

「俺も手伝います」

宗十郎は横目で佐吉を見る。

「危険だぞ」

「知っています」

「帰れなくなるかもしれない」

「それでも行きます」

宗十郎は小さく笑った。

「……分かった」

二人は並んで夜空を見上げた。

月が出ている。

十七年前と同じ月だった。

そして宗十郎は、初めて思った。

――この事件を終わらせれば。

自分も、月影を終わらせることができるのかもしれない。

その夜。

宗十郎は、母の簪を箱から取り出した。

月明かりに照らされた簪を見つめる。

「……母さん」

小さく呟く。

「もう少しだけ、付き合ってくれ」

十七年前の事件。

月影の始まり。

そして――

月影の最後へ。

物語は、静かに動き始めた。


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