第十七話 月影を知る女
夜。
神田の町を、細い雨が濡らしていた。
内田生活工房――ではない。
そこはまだ、ただの小さな薬種屋だった。
店先の戸を閉めようとした宗十郎は、雨の向こうに人影を見つけた。
女だった。
年の頃は五十を越えている。
濡れた着物の裾を気にすることもなく、じっと店を見ている。
「……何か?」
宗十郎が声をかけると、女はゆっくりと近づいてきた。
「黒川宗十郎さんでございますか」
「そうですが」
女は一瞬だけ迷った。
そして、小さな包みを差し出した。
「これを……」
宗十郎は包みを受け取った。
中には、古びた簪が一本入っていた。
月の形をした、小さな銀の簪。
宗十郎の表情が変わった。
「……これは?」
「十七年前、私の姉が持っていたものです」
「姉上が?」
「はい」
女は静かに頷いた。
「姉は十七年前に死にました」
佐吉が奥から顔を出した。
「……死んだ?」
「病で?」
女は首を横に振った。
「殺されました」
店の中に、雨音だけが響いた。
宗十郎は簪を見つめた。
「犯人は?」
「捕まりませんでした」
「なぜ今になって?」
女は俯いた。
「昨日、姉の部屋を整理していたら、これが出てきました」
「簪が?」
「いいえ」
女が取り出したのは、一枚の紙だった。
古びた紙。
そこには、短い言葉だけが書かれていた。
――月影に頼む。
宗十郎の指が止まった。
佐吉も息を呑む。
「……姉上は、月影を知っていたのですか」
「分かりません」
女は首を振った。
「ですが、姉は死ぬ前の日、私に言ったんです」
「何と?」
「もし私に何かあったら、月の形をした簪を誰かに見せなさい、と」
宗十郎は簪を裏返した。
そこには小さな傷があった。
三日月のような傷。
「……誰かに見せたことは?」
「ありません」
「なぜ私に?」
女は宗十郎をまっすぐ見た。
「あなたが、月影だからです」
佐吉の顔から血の気が引いた。
宗十郎は黙っていた。
しばらくして、静かに尋ねる。
「誰から聞きました?」
「十七年前に、姉を殺した男です」
「……何?」
「昨日、私の家に来ました」
女の声が震えた。
「そして言ったんです」
一度、息を吸う。
「――月影は、まだ生きているのか、と」
宗十郎の目が細くなった。
「顔は?」
「見ました」
「名前は?」
女は首を横に振った。
「知りません」
「特徴は?」
「左手に、火傷の跡がありました」
宗十郎は黙って考えた。
十七年前。
月影。
そして、三日月の簪。
これまでの事件とは違う。
これは、明らかに宗十郎自身に向けられた事件だった。
「佐吉」
「はい」
「店を頼む」
「……宗十郎さん」
「心配するな」
宗十郎は簪を懐に入れた。
「今度の相手は、私を知っている」
雨の中、宗十郎は女の家へ向かった。
そこは神田から少し離れた長屋だった。
姉が殺された部屋は、十七年経った今でも残っていた。
女が戸を開ける。
「ここです」
宗十郎は部屋の中を見回した。
古い畳。
柱。
壁。
何もない。
だが、宗十郎はすぐに気づいた。
柱の一本に、小さな傷がある。
三日月。
簪と同じ形だった。
「これは?」
「姉が付けたものだと思います」
宗十郎は傷を指でなぞった。
その下に、わずかな隙間がある。
「……佐吉がいれば、すぐ見つけたかもしれませんね」
そう呟いてから、宗十郎は懐から小刀を取り出した。
柱の隙間を少しだけ広げる。
中から、紙の束が落ちてきた。
女が息を呑む。
「それは……」
宗十郎は紙を一枚開いた。
そこには、人の名前が並んでいた。
商人。
役人。
同心。
そして――
月影。
その文字を見た瞬間、宗十郎の表情が消えた。
「……これは」
紙の一番下に、名前があった。
黒川宗十郎。
佐吉ではない。
宗十郎自身の名前だった。
しかも、その横には日付が書かれている。
十七年前。
女が震える声で尋ねた。
「姉は……あなたに依頼していたのですか?」
宗十郎は答えなかった。
記憶を辿る。
十七年前。
まだ宗十郎が月影として名を知られていなかった頃。
確かに一件、女から依頼を受けたことがある。
だが――。
「……私は、この依頼を受けていない」
「え?」
「いや」
宗十郎は紙を見つめた。
「正確には、受ける前に依頼が消えた」
姉は突然、依頼を取り下げた。
理由は書かれていなかった。
そして、その翌日に殺された。
宗十郎は長い間、そのことを忘れていた。
いや。
忘れようとしていた。
「では……」
女が震える。
「姉を殺したのは……」
「分からない」
宗十郎は立ち上がった。
「だが、十七年経って、相手が動いた理由は分かる」
「何ですか?」
宗十郎は簪を見た。
「これを、私に見せるためだ」
その夜。
宗十郎が店へ戻ると、佐吉が待っていた。
「どうでした?」
「十七年前の事件だった」
「……やっぱり月影が?」
「そうだ」
宗十郎は紙を机に置いた。
佐吉が目を見開く。
「これ……」
「私の名前がある」
「十七年前の依頼書ですか?」
「そうだ」
佐吉は紙をじっと見つめた。
「じゃあ、宗十郎さんは十七年前から……」
「月影だった」
宗十郎は静かに答えた。
その時だった。
店の戸が、三度叩かれた。
コン。
コン。
コン。
二人は顔を見合わせた。
宗十郎が戸を開ける。
誰もいない。
ただ、店先に一枚の紙が置かれていた。
宗十郎が拾う。
そこには一行だけ。
――十七年前の続きを始めよう。
そして、その下に小さく書かれていた。
――最後に残るのは、月影か、それとも黒川宗十郎か。
佐吉が息を呑んだ。
宗十郎は紙を握りしめる。
「……佐吉」
「はい」
「これから先は、今までとは違う」
「分かっています」
佐吉は宗十郎の横に立った。
「俺も行きます」
宗十郎はしばらく佐吉を見た。
そして、わずかに笑った。
「……そう言うと思っていた」
外では雨が止んでいた。
雲の切れ間から、月が顔を出す。
十七年前に始まった事件。
その続きを知る者が、今も江戸のどこかにいる。
そして――
月影始末人、最後の事件が始まろうとしていた。




