第十五話 最後の薬
冬の朝だった。
神田の町には、白い息が浮かんでいる。
薬種店の戸を開けると。
一人の老人が立っていた。
七十を越えているだろう。
薄い着物。
擦り切れた草履。
そして。
両手で小さな財布を握っている。
「薬を……」
老人は言った。
「薬を一つ、売ってもらえませんか」
宗十郎は老人を店へ入れた。
「何の薬だ?」
「咳の薬を」
「誰が飲む?」
老人は少し黙った。
「娘です」
宗十郎は薬を用意した。
「これなら効く」
老人は財布を開いた。
中には、わずかな銭しかない。
「……足りますか?」
宗十郎は銭を見た。
足りない。
だが「足りる」
「本当に?」
「ああ」
老人は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
薬を受け取ると、老人は何度も頭を下げて店を出ていった。
佐吉がその背中を見送る。
「宗十郎さん」
「何だ?」
「本当は足りなかったですよね」
「そうだな」
「どうして?」
宗十郎は薬棚を整理しながら答えた。
「薬が必要な人間に、金の話ばかりしても仕方がない」
佐吉は笑った。
「そういうところですよ」
「何が?」
「宗十郎さんが怖い人に見えない理由です」
「俺は怖いぞ」
「嘘ですよ」
宗十郎は苦笑した。
その日の夕方。
老人が再び店へやって来た。
顔色が悪い。
「どうした?」
老人は息を切らしていた。
「娘が……」
「薬が効かなかったのか?」
「違います」
老人は震える声で言った。
「娘がいなくなりました」
宗十郎の表情が変わった。
「いつ?」
「昼過ぎです」
「娘の名前は?」
「お美代」
「年齢は?」
「二十二です」
「病気なのか?」
「長く患っています」
老人は俯いた。
「娘は、もう長くないんです」
佐吉が黙った。
「医者には?」
「診てもらっています」
老人は涙を拭った。
「ですが……昨日から、娘が言うんです」
「何と?」
「最後に一度だけ、母親の墓へ行きたいと」
宗十郎は尋ねた。
「母親は?」
「十年前に死にました」
「墓は?」
老人が場所を告げる。
宗十郎は立ち上がった。
「行こう」
墓へ向かう途中。
宗十郎は老人に尋ねた。
「娘は、何か持っていたか?」
「はい」
「何を?」
「母親の簪です」
宗十郎の足が止まった。
「簪?」
「ええ」
「どんな簪だ?」
老人は懐から絵を出した。
そこには、一本の古い簪が描かれていた。
「これと同じものです」
宗十郎は見覚えがあった。
以前の事件で見たものとは違う。
だがどこか似ている。
「墓へ急ぐ」
墓地にはお美代がいた。
母親の墓の前に座っている。
「お美代!」
老人が駆け寄った。
娘は振り返った。
「父さん……」
「心配したぞ!」
「ごめんなさい」
老人は娘を抱きしめた。
「勝手にいなくなるな」
「うん」
お美代は父親の胸に顔を埋めた。
宗十郎は少し離れた場所で二人を見ていた。
しかし。
お美代の顔色は悪かった。
「薬は?」
宗十郎が尋ねる。
「飲んでいます」
「なら、なぜここへ?」
お美代は母親の墓を見る。
「母に会いたくて」
「……」
「私、母の顔を覚えていないんです」
老人が俯く。
「死んだのが十年前だから」
「私は十二歳でした」
お美代は笑った。
「でも、母が大事にしていたものは覚えています」
髪に挿していた簪。
母が毎朝、それを鏡の前で整えていた。
「母は、これを大事にしていました」
お美代は簪を握った。
「だから私も、大事にしていたんです」
宗十郎は聞いた。
「なぜ今日?」
お美代は少し考えた。
「たぶん……」
そして静かに言った。
「もうすぐ、母のところへ行くから」
老人が泣き崩れた。
「そんなことを言うな……」
「父さん」
「お前はまだ死んでない!」
「うん」
「だったら、生きろ」
「……」
「俺は、お前を育てるために働いた」
老人の声が震える。
「お前が笑うだけで、それだけでよかったんだ」
お美代の目から涙が落ちた。
「ごめんね」
「謝るな」
「ありがとう」
「礼も言うな!」
老人は娘を抱きしめた。
「まだ一緒にいよう」
お美代は父親の背中に手を回した。
「うん」
宗十郎は黙って二人を見ていた。
その夜。
三人は薬種店へ戻った。
宗十郎は薬を調べ直した。
病気そのものを治す薬ではない。
だが。
苦痛を和らげる薬なら作れる。
「これを飲め」
宗十郎は薬を渡した。
「少し楽になる」
お美代は薬を受け取った。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「でも……」
「薬屋だからな」
お美代は小さく笑った。
その夜。
お美代と老人は店の奥で休んだ。
佐吉は店番をしていた。
宗十郎は帳場に座っている。
「宗十郎さん」
「何だ?」
「眠らないんですか?」
「まだだ」
「お美代さん、治るんでしょうか」
宗十郎は答えなかった。
「……分からない」
佐吉は黙った。
しばらくして。
奥から老人の声がした。
「宗十郎さん」
「何だ?」
「娘が眠りました」
「そうか」
「久しぶりに、苦しそうな顔をせず眠っています」
「それはよかった」
老人は涙声で続けた。
「ありがとうございます」
宗十郎は振り返らなかった。
「俺は何もしていない」
「いいえ」
老人は言った。
「今日、娘と一緒にいられました」
「……」
「それだけで、十分です」
翌朝。
お美代は目を覚ました。
「父さん」
「何だ?」
「今日は、どこへ行く?」
老人は笑った。
「どこへ行きたい?」
「川を見たい」
「分かった」
「それから……」
お美代は少し考えた。
「団子を食べたい」
老人は泣きながら笑った。
「いくらでも買ってやる」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、二本」
「二本だけか?」
「三本」
「増えたな」
二人は笑った。
宗十郎と佐吉は、その姿を店先から見送った。
佐吉が言う。
「……いいですね」
「ああ」
「治るといいですね」
「そうだな」
二人の背中が遠ざかっていく。
その時。
お美代が振り返った。
「宗十郎さん!」
「何だ?」
「ありがとうございました!」
宗十郎は片手を上げた。
「達者でな」
「はい!」
二人の姿が角を曲がって消えた。
佐吉が言った。
「宗十郎さん」
「何だ?」
「最後の薬って、何だったんでしょう」
宗十郎は少しだけ考えた。
「薬か?」
「はい」
宗十郎は遠くを見る。
「一緒にいる時間だ」
佐吉は黙った。
「病気を治せない薬もある」
宗十郎は静かに続けた。
「だが、苦しみを少し減らすことはできる」
「……」
「そして、人が誰かと過ごす時間まで奪う必要はない」
佐吉は目を伏せた。
「月影って……」
「何だ?」
「悪人を追うだけじゃないんですね」
宗十郎は笑った。
「俺は薬屋だぞ」
「それ、今さら言います?」
二人は笑った。
その夜。
宗十郎は一人、店の奥に座っていた。
古い薬箱を開く。
そこには一本の簪が入っていた。
誰にも見せたことのないものだった。
宗十郎は簪を手に取る。
若い頃。
まだ月影になる前。
母からもらったものだった。
母はもういない。
宗十郎は簪を見つめる。
そして小さく呟いた。
「……俺も、もう少し生きてみるか」
窓の外には月。
その月明かりの中。
宗十郎は簪を静かに箱へ戻した。
月影は人を斬るためだけに生きているのではない。
誰かが明日を迎えられるように今日を守る。
それもまた始末人の仕事だった。




