第十四話 母の簪(かんざし)
その女は、雨の夜にやって来た。
薬種店の戸を、三度叩いた。
「……ごめんください」
宗十郎が戸を開ける。
そこには、濡れた着物の女が立っていた。
年は五十ほど。
髪は乱れ、手には古びた風呂敷包みを抱えている。
「薬を……」
「中へ」
女は小さく頭を下げた。
店へ入ると、宗十郎は火鉢のそばに座らせた。
「どこが悪い?」
女は首を横に振った。
「私ではありません」
「では?」
「息子です」
「病気か?」
「いいえ」
女は風呂敷を膝の上に置いた。
「息子が……人を殺したと言われました」
佐吉が振り返る。
「殺人?」
「はい」
女の手が震えていた。
「明日の朝、処刑されます」
宗十郎は女を見る。
「息子の名は?」
「弥吉です」
「何を殺した?」
「人を……」
女は唇を震わせた。
「商家の主人を」
宗十郎は尋ねた。
「息子は、本当に殺したのか?」
「いいえ!」
女は強く首を振った。
「絶対に違います」
「なぜ言い切れる?」
女は風呂敷を開いた。
中から一本の簪を取り出した。
古い簪だった。
「これは、私の母の形見です」
「それが?」
「息子が殺人現場から逃げたと言われています」
女は簪を握った。
「でも、弥吉はその時間、私のところにいました」
「証人は?」
「私だけです」
宗十郎は黙った。
「だから誰も信じてくれない」
女の目から涙が落ちた。
「息子は、私を置いて逃げたと思われています」
佐吉が口を開く。
「弥吉さんは、何も言わなかったんですか?」
「何も……」
女は首を振る。
「ただ一言だけ」
「何と?」
「母ちゃんの簪を……大切にしてくれ、と」
宗十郎の目が簪へ向いた。
「その簪を見せてくれ」
女が渡す。
宗十郎は細部を見る。
簪の先に、小さな傷。
そして。
赤黒い染み。
「血か?」
女が息を呑む。
「……分かりません」
宗十郎は立ち上がった。
「事件現場へ行く」
「今から?」
「ああ」
雨はまだ降っていた。
宗十郎と佐吉は、女から聞いた場所へ向かった。
殺されたのは、古道具屋の主人・伊兵衛。
店の中は荒らされていた。
帳簿。
金庫。
商品。
何かを探した形跡がある。
佐吉が言った。
「強盗でしょうか?」
「違う」
宗十郎は床を見る。
「金が残っている」
金庫には現金が残っていた。
「強盗なら、金を取る」
「じゃあ、何を?」
宗十郎は店の奥を見る。
棚の一角だけが空いている。
「何か一つだけ、持ち去られている」
「何でしょう?」
「分からない」
宗十郎は床にしゃがんだ。
血痕がある。
だが不自然だった。
「佐吉」
「はい」
「ここを見ろ」
「……血が、途切れてますね」
「そうだ」
血痕は店の中央から裏口まで続いている。
しかし。
途中で突然消えていた。
宗十郎は裏口を開けた。
外は雨。
「犯人は雨の中を逃げた」
「血の跡が消えた?」
「いや」
宗十郎は地面を指した。
「最初から、ここには血が落ちていない」
つまり。
血痕は途中までしか存在していない。
誰かが血を運んだのだ。
宗十郎は店へ戻った。
「死体をもう一度調べたい」
翌朝。
処刑を目前にした牢へ、宗十郎は入った。
弥吉は壁にもたれていた。
若い男だった。
「お前が弥吉か」
「……はい」
「母親が来た」
弥吉の顔が変わる。
「母ちゃんが?」
「ああ」
「……元気でしたか?」
「泣いていた」
弥吉は目を伏せた。
「そうですか」
「なぜ何も言わなかった?」
「何を?」
「自分は殺していないと」
弥吉は少し黙った。
「言いました」
「だが信じてもらえなかった」
「はい」
「それでも、なぜ母親を証人にした?」
弥吉は苦笑した。
「母ちゃんは、俺の言うことを信じてくれる」
「それだけか?」
弥吉は懐かしそうに笑った。
「俺が小さい頃、父親が死んでから……母ちゃん一人で俺を育てたんです」
「……」
「俺が悪いことをしたら、叱ってくれた」
「当然だな」
「でも、俺が何も悪くない時は、誰に何を言われても俺を信じてくれた」
弥吉の目に涙が浮かぶ。
「だから……」
彼は宗十郎を見た。
「最後くらい、母ちゃんには笑っていてほしかった」
「何?」
「俺が人殺しじゃないって、母ちゃんだけは知っている」
弥吉は俯いた。
「それで十分だと思いました」
宗十郎はしばらく黙っていた。
そして「十分じゃない」
弥吉が顔を上げる。
「え?」
「母親にとって、息子が死ぬことが十分なわけがない」
宗十郎は立ち上がった。
「まだ時間はある」
「宗十郎さん?」
「真実を探す」
牢を出た宗十郎は、伊兵衛の店へ戻った。
佐吉が待っていた。
「何か分かりました?」
「伊兵衛が最後に何を持っていたか調べる」
二人で店を調べる。
すると壁の裏から、小さな隠し箱が見つかった。
中には数枚の古い手紙。
そして。
一枚の紙。
そこには、弥吉の名前が書かれていた。
佐吉が読む。
「伊兵衛さんは、弥吉さんが殺人犯じゃないと知っていた?」
「そうらしい」
宗十郎は手紙を読む。
伊兵衛は、店の取引相手から脅されていた。
違法な取引の証拠を握っていたため、口封じをされようとしていた。
そして弥吉は。
偶然、その場に居合わせた。
伊兵衛は弥吉に逃げるよう命じた。
「じゃあ、弥吉さんは伊兵衛さんを殺してない」
「ああ」
宗十郎は手紙の最後を見る。
――もし私が死んだら、弥吉を疑わせないでくれ。
だが、その願いは届かなかった。
犯人は伊兵衛を殺し、弥吉がいたことを利用して罪を着せた。
そして証拠を奪った。
「その証拠は?」
佐吉が尋ねる。
宗十郎は店内を見回した。
そして。
一つの古い壺に目を止めた。
蓋を開ける。
中から小さな帳面が出てきた。
「これだ」
帳面には、犯人の名前と取引の記録が残されていた。
宗十郎は急いで奉行所へ向かった。
証拠を提出し、弥吉の取り調べ記録を覆した。
犯人はその日のうちに捕まった。
そして翌朝。
牢から弥吉が出てきた。
外には母親がいた。
「弥吉!」
「母ちゃん……」
二人はしばらく動かなかった。
やがて。
母親が息子を抱きしめた。
「生きてる……」
「うん」
「本当に、生きてる……」
弥吉は母親の背中を何度も撫でた。
「ごめんな」
「何が?」
「心配かけて」
「馬鹿だね……」
母親は泣きながら笑った。
「帰ってきただけでいいんだよ」
弥吉は懐から簪を取り出した。
「これ」
「……」
「返すよ」
母親は首を振った。
「持ってな」
「俺が?」
「父さんが死んだ時も、その簪があった」
母親は笑った。
「今度は、お前が生きて帰ってきた証だよ」
弥吉は簪を握りしめた。
少し離れた場所で。
宗十郎と佐吉が、その光景を見ていた。
佐吉が小さく言った。
「……よかったですね」
「ああ」
「宗十郎さん」
「何だ?」
「月影って、人を殺す仕事じゃないんですね」
宗十郎は答えなかった。
しばらくして
「俺たちは、人を救えるなら、それでいい」
佐吉は笑った。
「それなら、俺も月影を手伝っていてよかったです」
宗十郎は佐吉を見る。
「そうか」
「はい」
「なら今日は、店を頼む」
「……え?」
宗十郎は歩き出した。
「俺は少し寝る」
「宗十郎さん!」
佐吉の声が江戸の朝に響いた。
宗十郎は振り返らず、片手だけを上げた。
その顔にはほんの少しだけ。
笑みが浮かんでいた。
雨上がりの空に、薄い月が残っている。
月影は今日も誰にも知られず、江戸の闇を歩いていく。




