第十二話 月の傷
「顔に、月の形の傷がありました」
子供はそう言った。
宗十郎はしゃがみ込み、子供と目線を合わせる。
「その男は、何と言っていた?」
「おじさんは……」
子供は怯えたように口を閉じた。
「大丈夫だ。ゆっくり話せ」
「月影っていう人を知ってるかって」
「それで?」
「知らないって言ったら、これを渡せって」
子供は宗十郎を見る。
「おじさんが、これを渡せば、お金をくれるって」
「いくらだ?」
「十文」
佐吉が苦笑した。
「十文でこんな危ない手紙を……」
宗十郎は手紙を畳んだ。
「男はどこへ行った?」
「向こうです」
子供が指を差す。
「でも、もういないと思います」
宗十郎は立ち上がった。
「佐吉」
「はい」
「この子を頼む」
「分かりました」
宗十郎は一人、夜の町へ出た。
男の足跡は、すぐに見つかった。
湿った土。
大人の足。
しかし、途中で消えている。
宗十郎は周囲を見回した。
長屋。
井戸。
木材置き場。
そして、屋根の上。
「……屋根か」
男は屋根伝いに逃げた。
宗十郎も屋根へ上がる。
月明かりの下。
遠くに人影が見えた。
宗十郎は追った。
男は浅草方面へ逃げる。
やがて古い寺の裏へ入った。
だが。
そこで姿を消した。
翌朝。
宗十郎は寺の住職を訪ねた。
「昨夜、この辺りに男が来なかったか?」
住職は考える。
「そういえば……」
「何か?」
「夜更けに一人、男が来ました」
「顔に傷は?」
住職の顔が変わった。
「……ありました」
「どんな傷だ?」
「左の頬に、三日月のような傷です」
宗十郎は頷いた。
「どこへ行った?」
住職は裏手を指した。
「墓地です」
墓地。
宗十郎は歩いた。
古い墓が並んでいる。
その一角に、新しい花が供えられていた。
墓碑を見る。
そこには、
榊原玄馬
と刻まれていた。
宗十郎の目が止まった。
第一話で宗十郎が追った男。
悪徳同心の配下。
榊原玄馬。
十年前に死んだはずの男だった。
佐吉が後ろから来る。
「宗十郎さん……」
「この墓を調べる」
「でも、榊原って……」
「ああ」
宗十郎は墓石の前にしゃがんだ。
「十年前に死んだ男だ」
墓の土を見る。
掘り返された跡がある。
「……誰かが墓を開けた」
「死体を?」
「違う」
宗十郎は土の中から小さな金具を拾った。
古い箱の留め具。
「箱を埋めたんだ」
「何の箱です?」
「それを探す」
寺の住職に聞くと、十年前の記録が残っていた。
榊原玄馬の葬儀。
参列者。
そして一つの妙な記述。
――遺体は身元確認が十分にできず。
宗十郎は記録を閉じた。
「……やはり」
「何がです?」
「十年前に死んだのは、榊原本人ではない可能性がある」
佐吉が驚く。
「じゃあ、生きていた?」
「その可能性がある」
宗十郎は寺を出た。
神田へ戻る途中。
一人の老人に声を掛けられた。
「黒川さん」
宗十郎が振り返る。
老人は元同心だった。
名を、藤村という。
「榊原のことを調べているのか?」
「知っているのか?」
「十年前、俺も調べた」
「何があった?」
藤村は周囲を確認した。
「榊原は、ある事件の後に姿を消した」
「死んだのでは?」
「死体が見つかった」
「別人?」
「そうだ」
宗十郎の目が鋭くなる。
「なぜ、そんなことを?」
藤村は答えた。
「榊原には敵が多かった」
「だから?」
「誰かが榊原を殺した。そして別人の死体を榊原に仕立てた」
「誰が?」
藤村は首を振った。
「そこまでは分からない」
「だが、何か知っている」
藤村は懐から古い紙を出した。
「これだけだ」
紙には十年前の日付。
そして、
――月影に依頼。
と書かれていた。
宗十郎の顔が変わる。
「これは……」
「十年前、ある女が月影に依頼した」
「何を?」
「夫を殺した男を探してくれ、と」
「夫?」
「その女の夫が、榊原だった」
宗十郎は黙った。
「つまり……」
藤村が言う。
「お前が十年前に追っていた事件と、今の事件は繋がっている」
宗十郎は紙を握った。
その夜。
薬種店。
宗十郎は古い記憶を辿っていた。
十年前。
月影として受けた依頼。
依頼人は女。
夫が悪事を働いている。
証拠を探してほしい。
宗十郎は調べた。
そして榊原玄馬へ辿り着いた。
だが。
事件の途中で榊原は死んだ。
宗十郎は、それ以上追わなかった。
「……俺は、そこで終わったと思っていた」
佐吉が言う。
「でも、本当は終わっていなかった」
「ああ」
その時。
店の外で物音。
宗十郎は刀を取った。
戸が開く。
男が立っている。
左頬に、三日月形の傷。
「ようやく会えたな」
宗十郎は男を見る。
「榊原玄馬か?」
男は笑った。
「そうだ」
佐吉が息を呑む。
「生きていた……」
榊原は刀を抜いた。
「三年前、お前は俺を追った」
「ああ」
「だが、俺は逃げた」
「なぜだ?」
「お前に殺されたことにした」
宗十郎は黙った。
「俺を追っていた役人たちは、俺が死んだと思った」
「そして十年間、姿を隠していた」
「そうだ」
「なぜ今になって現れた?」
榊原の顔から笑みが消えた。
「復讐だ」
「何の?」
「俺の父親を殺した」
宗十郎は眉を動かした。
「俺が?」
「そうだ」
「誰だ?」
榊原は叫んだ。
「十年前、お前が斬った男だ!」
宗十郎は黙った。
記憶を探る。
そして。
一人の男を思い出した。
榊原ではない。
榊原の父親。
悪徳商人と結託していた男。
だが。
宗十郎は殺していない。
「俺は、お前の父親を殺していない」
「嘘だ!」
榊原が斬りかかる。
宗十郎は刀を受ける。
「なら証拠を見せる」
「何?」
宗十郎は刀を弾いた。
「お前の父親は、十年前の事件の三日前に死んでいる」
榊原の動きが止まった。
「……何を」
「俺が追った事件は、その後だ」
宗十郎は続けた。
「お前は、誰かに嘘を吹き込まれた」
榊原の顔が揺れる。
「そんな……」
「そして、その誰かがお前を利用している」
その時。
外から声がした。
「榊原!」
別の男が現れた。
商人風。
榊原が振り返る。
「お前……」
男は刀を抜いた。
「余計なことを話すな!」
榊原を斬ろうとする。
宗十郎が割って入る。
刀を受け止める。
男は逃げようとした。
しかし佐吉が戸を閉める。
「逃がしません!」
宗十郎が男を取り押さえる。
男の懐から、一枚の書状が出てきた。
宗十郎が読む。
そこには十年前の事件の記録。
そして最後に、
――榊原玄馬を利用し、月影を誘き出せ。
と書かれていた。
宗十郎は書状を見つめた。
「……やはり」
榊原は呆然としていた。
「俺は……利用されていたのか」
「そうだ」
「誰が?」
宗十郎は書状を見る。
名前が書かれている。
それは。
十年前に宗十郎が裁きの場へ引き渡した男の息子だった。
すでに死んでいる。
つまり。
今回の事件を仕組んだ者は、その息子の遺志を継いでいた。
榊原は奉行所へ引き渡された。
十年前の事件も再調査されることになった。
そして宗十郎は。
榊原の墓の前に立っていた。
そこに刻まれた名前は。
今度こそ本物だった。
佐吉が尋ねる。
「宗十郎さん」
「何だ」
「結局、月影を狙っていたのは誰だったんでしょう?」
宗十郎は首を振った。
「まだ分からない」
「まだ?」
「ああ」
宗十郎は墓を見た。
「今回の男は、誰かに命令されていた」
「その命令を出した人間は?」
「分からない」
佐吉が不安そうな顔をする。
宗十郎は懐から、最初の偽依頼書を取り出した。
「だが、一つだけ分かった」
「何です?」
「十年前から、誰かが月影を調べている」
「……」
「そして、俺の名前まで知っている」
風が吹いた。
墓地の木々が揺れる。
宗十郎は月を見上げた。
「だが、今は追わない」
「どうして?」
「向こうが動くまで、こちらから動く必要はない」
「……怖くないんですか?」
宗十郎は小さく笑った。
「怖いさ」
佐吉が驚く。
「宗十郎さんでも?」
「ああ」
「じゃあ、どうして?」
宗十郎は歩き出した。
「怖いからこそ、目を逸らさない」
月明かりが二人の背中を照らす。
その翌朝。
薬種店の戸を開けると。
店先に、小さな木箱が置かれていた。
宗十郎が蓋を開ける。
中には一枚の紙。
そして。
見覚えのある三日月の印。
紙にはこう書かれていた。
――次は、お前ではない。
――お前の大切な者を狙う。
宗十郎は無言で紙を握り潰した。
その時。
店の奥から、佐吉の声がした。
「宗十郎さん!」
宗十郎が振り返る。
「どうした?」
「薬が……一つ、なくなっています」
宗十郎の表情が変わった。
「何の薬だ?」
佐吉は震える声で答えた。
「人を眠らせる薬です」
店の中に。
不気味な沈黙が落ちた。




