普通の午後
開けた扉を後ろ手に閉める。部屋のわきに置かれた本棚から漫画本を一冊抜き取り、床に敷かれた茣蓙の上に寝転ぶ。前回、どこまで読んだっけな。まあいいや、また最初から読もう。
あたしの名は橘樹絵瑠。いま教室は五時間目の授業中。一日のうち最も眠たくなるこの時間を、あたしはよく授業をサボってこの部屋で過ごす。部室棟地下一階のこの部屋は、元は何かの部活が部室として使っていたものらしい。その部活が廃部となってからはただの空き部屋。それを有効利用させてもらっている。
ぼんやりとページをめくりながら、欠伸をひとつ。すると、ガチャリ、と部屋の扉が開いた。
「おーす!」
「……よっ」
同じクラスの佐倉澪だ。佐倉は本棚から漫画本を一冊抜き取ると、あたしから少し離れた位置に座った。
「あ、それ」
と、佐倉はあたしが読んでいる漫画に目を向ける。
「……なに? あんたも読みたかったとか?」
「いや、このあいだ全部読んだ」
「……あっそう」
「それ、六巻でヒロインのひとりが死ぬよ」
「――は、はあっ⁉」とあたしは半身を起こす。「な、なんで言っちゃうんだよ⁉ あたしまだ四巻の途中なのに!」
「いや、先の展開気になるかなと思って」
「気になるよ! だから読んでんだろうがっ!」
おお、なるほど、と佐倉は納得したように首を数度頷かせる。――ったく、いつもながらめちゃくちゃなやつ。人のサボりスペースにズカズカと遠慮なく踏み入ってくるし、読んでる漫画はネタバレしてくるし……ほんと、なに考えてんのかさっぱりわからない。マイペースで自分勝手な、自己チュー女。そんなこいつといると、あたしは、あたしは……
――ドキドキが、止まらない。
「……」
「……」
自分でも、おかしいってことはわかってる。実際、最初は純粋に、よくわからないウザいやつ、程度にしか思っていなかった。それがいつからか……。
「……」
「……」
狭い部屋に沈黙が充満する。反対に、あたしの鼓動の音はずっと騒がしい。佐倉に聞かれていないかと心配になる。ああ、もう、くそッ! いったいどうなってるんだ、あたしは――。
「な、なあ」
「ん?」
「ちなみに、その、死ぬのってどっちのヒロイン? 髪長いほう?」
「ううん、そっちじゃない。あとから登場するほう」
「だから、ネタバレすんなよっ!」
「いや、いまのはそっちから訊いただろ」
ふぅ。大きな声出したらちょっと落ち着いてきた。あとはなるべく漫画に集中して、佐倉を意識しないようにしよう。集中、集中……
「――ところでさ、橘」
「……な、なんだよ」
「わたしって、可愛くないかな?」
「……」
「……」
「は、はあ⁉ きき、急に何言って――」
「いやぁ、今朝友だちに言われちゃってさぁ。わたしの顔は普通だって」
友だちに? 誰だよそれ。センスねえよ。そんな友だち、縁切れよ。
「でさ、どうかな? やっぱわたしって、可愛くない?」
「い、いや……そんな、ことは……」
「えー? なんだよー、はっきり言ってくれよー。べつに傷つかないからさぁ」
「は、はっきり……?」
い、言えるわけないだろ、そんなこと。そんなのほぼ、告白じゃないか。
「頼むよー、橘ぁ。気ぃ遣うようなタイプじゃないだろー? 同じ女子からの忌憚なき意見を聞かせてくれよー」
「同じ、女子からの……」
そ、そうか。冷静に考えれば、女が女の容姿を褒めるのはべつにおかしなことじゃない。「えー○○ちゃん、今日の髪型かわいー」なんて、クラスの女子が言ってるのをたまに目にするし。そうだ、大丈夫。変に意識するな。これは普通のこと。
「よ、よし。言うぞ」
「うん、頼むよ」
「ほ、本当に、言うからな」
「……言うのに、そんなに覚悟がいることなの?」
すぅー、とあたしは深く息を吸う。そして、言った。
「か、かわい、い……」
「え、マジ?」
コクコクとあたしは首を振る。ああ、顔が熱い。恥ずかしい。あんましこっち見ないで。
「ね、橘。もっかい言って」
「――え。もう一回……?」
うん、と笑顔で頷く佐倉。逸る鼓動を抑えるように胸に手を置き、
「か、かわいい……」
「わーい。もう一回」
「かわい、い……」
「キャハッ。もいっかい」
「か、かわいい……!」
「もっかい、もっかーい」
な、なにこれ。なんの罰ゲーム? 恥ずかしすぎて死にそうだ。もう勘弁して。
「あー満足した。ありがと、もうやめていいよ」
「も、もういいの?」
「うん、おかげで元気出た。ありがとね、橘」
そう言って佐倉はあたしににっこりと微笑みかける。
「か、かわぃ……」
「いや、だからもういいって」
う。しまった、つい。……とにかく、この妙な流れが終わってくれてよかった。危うくもう少しで恥ずか死するところだった。
「あ、そうだ」
と、思い出したように佐倉があたしを見て言った。
「橘も可愛いよ」
瞬間、ふらっと意識が遠のく。
「た、橘っ⁉ どうした、大丈夫か⁉」
倒れたあたしの顔を覗き込むように佐倉が寄ってくる。その顔を漫画で隠しながら、いろいろと大丈夫じゃないけど、「大丈夫」と絞り出した。




