普通の授業中・表
カツカツと、チョークの音が教室に響きわたる。カリカリ、サラサラと紙にペンを走らせる音。時たま、ぱらり、とノートのページをめくる音。聞こえてくるのはそれだけ。
わたしも黒板の文字をルーズリーフに書き写そうとして、ぴたりと手が止まる。ペンを握る手にぎゅっと力がこもる。
――まずい。
――お腹が鳴りそうだ。
今朝は少し寝坊して時間がなかったから、食べるパンがいつもより一枚少なかったことが原因だろうか。……朝ごはん。今朝食べたほうれん草エッグトーストはそれにしても絶品だった。一緒に出た玉ねぎとトマトのスープもほどよい酸味が利いていて……
「ぐっ……」
思わず小さく声が出た。危ない。食べ物のことを考えたら危うく鳴ってしまうところだった。体内で胃が強く収縮しているのがわかる。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ――」
先生がボソボソと教科書を読み上げる声が聞こえる。鳴らすならせめて先生の声に紛れさせたいところだけど、よりにもよっていまは古文の時間。国語の伏見先生はおばあちゃん先生だ。あんな虫の鳴くような声では、かき消すどころか、わたしのお腹の音が突然作中に登場したみたいになってしまう。グーグーと腹を鳴らしながら女を口説く光源氏。モテなそう。
「うっ……」
いけない。お腹が鳴ることを想像したらまさしく現実でも鳴ってしまいそうになった。胃が活動をより活発化させている。
わたしの経験上、この感じはレベル3だ。レベル1は常人の耳には聞き取れない程度。レベル2は近くの人に「あれ? いま誰かお腹鳴ったかな?」と気づかれるくらい。レベル3になると半径一メートル以内の人に、確実に鳴ったことを知覚されてしまう。しかもおそらく、その発生源まで特定されることだろう。
ちらと右隣の席に目をやる。真面目に授業を聞いている朋美ちゃんの横顔が見える。
始業前、智美ちゃんとたまたま今朝の朝食の話になり、朝ごはんを食べてきたことは言ってしまった。いまは二時間目。もし彼女にお腹の音を聞かれてしまったら、朝食を食べてきたにもかかわらず二時間目にはもうお腹を空かせているとんだ大食い女だと思われてしまうかもしれない。——いや、それどころか、
『ねえ、知ってるー? 池田さんたら、二時間目の途中にお腹鳴らしてたのよぉ』
『聞いた聞いたー。しかも、朝ごはんをちゃんと食べてきたのにでしょぉ? 信じらんないわよねぇ。一日六食くらい食べてるのかしら』
なんて噂されてしまうかもしれない。一日六食だなんて、普通じゃないイメージはもたれたくない。それだけは絶対に避けなければならない……!
「うぅッ……」
やばい。意識したら余計に鳴ってしまいそうだ。しかも「絶対に」なんて思っちゃったから、緊張でいっそう胃がキュッとしているのを感じる。これはもはやレベル4クラスかもしれない。
どうしたら――と顔を俯かせた先。床に一本のシャープペンが転がっているのが見えた。シャープペン……。そうだ、とわたしはそれを拾い上げた。そして制服の袖をまくり、自分の左腕に勢いよく突き立てた。
「つッ……」
前に誰かから聞いたことがある。車酔いを他の外部からの刺激によって紛らわせる手法。どうやらお腹の音に対しても効果はあったみたいだ。胃のキュッとした感じが和らいだような気がする。(※よい子はマネしないでください)
「ぐ……ぐ、ぐぅ……」
でも、痛い。これはこれで辛い。とはいえ、やめたらまたお腹の音の恐怖に苦しむことになる。残りの授業時間、この痛みを耐えつづけなければならないのだろうか。なんの修行だろう。
そこへ、
(池田)
ぼそりと、左から声が聞こえた。振り向くと、隣の席の野村くんがこちらを見ていた。
(野村く――)
しっ、と野村くんは唇の上に人差し指を置く。そして言った。
(大丈夫。俺にまかせろ)
そう言うと野村くんは目をつむり、小さな声でぶつぶつとなにか呟きはじめた。そしてカッと目を開くと、手を前にかざして言った。
(セイント・オムラーダッ‼)
(……)
(……)
(……)
(……どうだ?)
ど、どういうこと――――⁉
どうだ、って何が? 何に対して? ていうかいま、なんて言ったの? なんか、オムラなんとかって……
はっ。
「う……ぐ、ぐぅ……」
まずい。言葉に引っ張られて頭にオムライスが浮かんで、またお腹がキュッとしはじめた。ふわっとした玉子にコクのあるチキンライス、トマトの旨味が利いたケチャップによる三位一体のハーモニー。食べたい。うぅ……。
(グラマダ・ブイヤベールトッ‼)
ブイヤベース。タラ、エビ、アサリに香味野菜、サフランの豊潤な香り。パンを浸して食べたときに口いっぱいに広がる濃厚な味わい……。
(ミソシルニー・ヤキージャケッ‼)
母さん、今日は飲んできたから夕飯いらないよ。あら、そうですか、先に言ってくれれば……お味噌汁だけでもお飲みになりますか? 味噌汁か……そうだな、頂こうか。ズズ……ああ、うまい。ふふ、そうですか、よかったです。なんか、味噌汁を飲んだらちょっと小腹が空いてきたな。あら。じゃあお魚でも焼きましょうか? うん、もらうよ。……なあ、母さん。いつもありがとうな。え、なんですか突然? いや、なんでもない。それより、早く魚を頼む。ふふ。はいはい、ちょっと待っててくださいね。
ああ……なんなのだ、なんだって野村くんはわたしにこんなことを……。もはや頭の中は美味しそうな料理でいっぱいだ。どこぞの老夫婦まで出てきてしまった。
もうだめだ。想像の料理によって散々刺激されたわたしのお腹は、いまやレベル5規模で鳴るだろう。教室中にそのけたたましい爆音を響きわたらせるに違いない。
もう限界……鳴る。さよなら、わたしの普通のイメージ――
と、思ったそのとき、
「野村くん。なんですかさっきから、落ち着きのない。いまは体育じゃなく、古文の時間ですよ。もうちょっとおとなしく座ってなさい」
伏見先生が言った。気まずそうに座りなおす野村くん。教室中に響く笑い声に紛れて、わたしのお腹がグゥと鳴った。




