普通の片思い
「でね、その先輩ったら超怖がりなもんだから、わたしを置いて一人で逃げてっちゃったわけよ」
「えー、本当かなぁ。怖がりなのは奏音もでしょ。本当は奏音も一緒になって逃げ出したんじゃないのー?」
「な、なにを失礼な。あたしは怖がりなんかじゃないよ。この間だって、千智が怖くて一人で観られないっていうから、一緒にホラー映画観てあげたじゃん」
「え、なにその記憶の改ざん! 『怖いから一緒に観て』って頼んできたの、奏音のほうだったよね?」
隣の席から話し声が聞こえてくる。声の主は同じクラスの森木千智……と、ついでに許斐奏音だ。
話の内容を聞くともなしに聞きながら、僕はちらりと彼女の横顔に視線を向ける。
森木千智——。入学式で一目見たとき、僕は彼女に心を奪われた。清楚な外見に、反面不思議な意志の強さを感じさせるその目に、そして何より、その笑顔に。
彼女と話ができたら——。そう思っていたら、運良く同じクラスになった。そしてなんと、隣の席になった。なんという幸運。……しかし僕はその幸運を活かすことなく、彼女とロクに話をする機会も作れぬまま、入学してはや三か月が経ってしまった。それは偏に、僕に意気地がないせいだ。今日こそと毎日のように思いつつも、いざ彼女を前にするとどうしても話しかける勇気が湧いてこない。あぁ、森木——。こんなに近いのに遠い。そんな僕らはさながら、織姫と彦星……。
しかし。このままではいけない。そう僕は思い立った。そして決意した。今日こそは森木に話しかけようと。今日こそと毎日のように思いつつ声をかけられずに終わる。そんな日々から今日こそは脱しようと。
そうしてまさに森木に声をかけようとしたそのとき、「おーい、千智ー」と許斐がやってきた。そしてそのまま会話が始まってしまった。だから僕は決意した。明日こそ、森木に話しかけようと。今日こそと毎日のように思いつつ声をかけられずに終わる。そんな日々から明日こそは脱するのだ。
「……あれ? そういえば奏音、今日部活の日じゃなかったっけ? 行かなくていいの?」
「ん? あぁ、まぁゆるい部活だからね。どうせ今日もたいした活動してないだろうし、ちょっと遅れて行くくらいがちょうどいいんだよ」
「そうなんだ。でも、わたしはもうそろそろ帰るよ? 先輩待たせちゃうといけないし……」
「先輩? って、最近よく一緒にお昼食べてる人? 帰りまで一緒なんて、またずいぶん仲良くなったね」
「へへ、まあね」
「……ねね、その先輩ってさ、どんな人なの? そろそろ教えてよ」
「えー。うーん……どうしよっかなぁ……」
「なになにー? 自分だけのものにしておきたいってこと? これは怪しいですねぇ。千智にもいよいよ春の予感かぁ?」
「やめてよ、そんなんじゃないって」
「あー。千智があたしから遠いところへ行ってしまうー」
「もう、なに言ってんの」
しょーがない、あたしも部活行くか。あたしが行ってあげないと締まらないしね。ゆるい部活なんじゃなかったの? 二人の声が遠ざかっていく。
どれほど時間が経ってからだったか。僕は部活道具を手に、ふらつく足取りで教室を出た。
晴れ渡る空。輝く太陽。部活日和、と言うには少し暑い。だがまあ、寒いよりはいい。さて、今日も練習頑張るか。と、グラブを手にグラウンドを見渡すと、眩しい日差しの爽やかさからはかけ離れた、どんよりと暗い表情をしてるやつの姿が目に入った。
「おい、安達」
近寄り、声をかける。
「お前、なにそんなとこでぽつんと体育座りなんかしてんだ? もうすぐ練習始まるぞ。ウォーミングアップはもう済ませたのか?」
「犬塚先輩……」
と安達がぼんやりした顔をこちらに向ける。
「……ウォーミングアップなんかじゃ、僕の冷えた心は温まりませんよ……」
「まぁ、そうだろうな。ウォーミングアップは心じゃなく、体を温めるためのものだから。……何かあったのか?」
「何か……」
そう呟いた安達の目に、じわりと涙が浮かぶ。
「お、おい、どうした。俺でよかったら話聞くぞ。何があったんだ? 話してみろ」
「犬塚先輩に……?」
「ああ」
「……」
「……」
「いえ、いいです……」
「……これは完全にただの勘なんだが、お前もしかしていま、なにか失礼なことを思ったか?」
「そんなことないです……」
「……そうか。悪かったな、疑って。まぁ、もし話したくなったら、いつでも声かけてくれよ」
「はい、ありがとうございます……」
じゃあな、と声をかけ、心配ではあるがその場を離れようとする。——と、
「おーい、犬塚ぁー」
と声がした。見るとフェンスの向こうからこちらに手を振っている佐倉の姿が見えた。
「なんだ、佐倉か。どうした?」
「フッフッフ。聞いてよ、わたし昨日、『Mermaid Splash!』でパーフェクト出しちゃった」
「な、なに? あの難曲でか? すごいな……俺はせいぜい三ミスクリアがやっとだ」
「ふっふーん。これでまたランキングに差がついたね。犬塚も、もっと練習して早くわたしに追い付かないと。こんなとこで球遊びなんかしてる場合じゃないよ」
「……いや、これも俺にとっては大事な練習なんだが……。とりあえずお前、俺以外の野球部員の前で野球のことを『球遊び』と表現するの、絶対やめといたほうがいいぞ」
それじゃあねー、と手を振り、佐倉は去っていく。ただ俺に自慢するのが来訪の目的だったようだ。暇人め。やれやれ、と首を振り、振り返る。
「犬塚先輩」
「う、うぉあッ!」
目の前に安達が立っていた。
「び、びっくりした……。なんだよ?」
「先輩に、折り入ってご相談したいことが」
「相談……? って、さっきの話か? べつにいいけど……急にどうしたんだ? さっきは全然話すつもりなさそうだったじゃないか」
「事情が変わったんです」
「事情?」
「そうです」
と、安達は勢い込んで言う。
「だって、犬塚先輩って見るからにモテなそうじゃないですか! だからさっきは『こんな人に相談しても無駄だな』って思ったんです! なのに、あんな綺麗な彼女さんがいるなんて……! だから、相談相手として適任だと思いました! お願いです犬塚先輩、どうか僕の話を聞いてください!」
「わ、わかった、わかったから少し落ち着け。とりあえず、先輩にどれだけ失礼なことを言ってるかを自覚できる程度には冷静になってくれ。……ひとまず、そっちの日陰のほうに行こう」
安達を宥めながら移動する。
「なるほど……つまり、恋の悩みか」
犬塚先輩が腕組みをして言う。
「はい……」
「しかし、お前もなかなか隅に置けないなぁ。同じクラスの女の子に恋、か。いやぁ、青春だ」
「その青春がいま、暗澹たる闇に葬られようとしているんです。……僕、どうしたらいいですかね?」
「どうしたら、って……要するに、その女の子に誰か好きな人がいるかもしれないって話だろ? 普通に、直接その子に訊いてみたらいいんじゃないのか?」
「訊くって、どう訊いたらいいんですか? 『こんにちは。好きな人いる?』って訊くんですか?」
「挨拶との間にもう七クッションくらい挟めよ。あと、そう直接的に訊かずに、もっとこう、うまいこと遠回しに……」
「はぁ……無理ですよ、そんな、上手い訊き方なんて……。そもそも僕、挨拶以外で彼女とまともに会話したことすらないんですから……」
「え、そうなのか? でも、席隣なんだろ?」
「近いからこそ話せないんですよ。僕と彼女はアルタイルとベガだから……」
「アルタ……何を言ってるんだ、お前は? ……まぁでも、その子の友だちも知らなそうってんなら、やっぱり本人に訊くしかないな。まずはその子と話せるようになるところからじゃないか」
「話せるように……。先輩は、あの可愛い彼女さんとどうやって仲良くなったんですか? 女の子に話しかけるコツを教えてください」
「いや、だからあいつは彼女じゃないって……。コツって言われてもなあ……べつに相手が女子だからって、特別意識したことないぞ。普通に話しかければいいだけだと思うけど」
「出た出た。先輩、それはコミュエリートの驕りですよ。先輩にとっての『普通』は僕にとっての『普通』ではないんです。もっとかみ砕いて教えてください」
「なんだ、コミュエリートって……。——ん、みんなが集まり出した。おい安達、俺たちも行くぞ。この話はまた、練習が終わってからにしよう」
「待ってください、デネブ」
「誰がデネブだ」
と、犬塚先輩は他の部員たちのほうへ向かいかける。そこへ、
「あ、犬塚くーん」
またも先輩を呼ぶ声。見るとさっきとは違う女子生徒が先輩に向かって手を振っていた。おいおい、あれだけ美人な彼女がいるにもかかわらず、あんなかわ——まあまあ可愛い女子とも知り合いなのかよ。いやまさか、犬塚先輩がこんなにもモテる人だったなんて。人は見かけによらない。必ずや先輩に弟子入りして、女子と仲良くなる方法を伝授してもらおう。そう決意しつつもう一度そちらを見ると、その女子生徒の後ろに立っているもう一人の女子生徒の存在に気が付き、思わず目を見張る。
「おう、池田。どうした?」
「ごめんね、練習中に。あのね、いまこっちに澪ちゃん来なかった?」
「佐倉? うん、来たぞ。ちょっと喋って、すぐ帰ってった」
「あぁ、じゃあ行き違いだ。千智ちゃん、もう一度校門のほうに行ってみよう」
犬塚先輩に礼を言い、女子二人は去っていく。先輩がこちらに戻ってくる。
「——ん? どうした安達? なんだか驚いたような顔して」
「い、いまの子……いま後ろにいた子が、その、僕の好きな子、です……」
「え、あの子が? ……そういえばあの子、最近池田と一緒にいるの、よく見るな。昼休みもうちの教室によくメシ食いに来てるぞ。……なあ、もしかして、あの子が最近仲良くしてる先輩って、池田のことなんじゃないのか?」
瞬間、僕の心に晴れ間が差した。闇に葬られようとしていた青春の息吹が再び確かな脈動を始める。空は、太陽は、こんなにも明るかったなんて。僕は力強く犬塚先輩の手をとった。
「先輩、ありがとうございます! おかげさまで僕、立ち直れました! 彼女に振り向いてもらえるよう頑張ります! これでまた野球にも集中できそうです!」
「あぁ、うん。……その、今日も球拾い、頑張ってな」
「——で、その新作ボードゲームで、あたしは初見だったにもかかわらず、いきなり三連勝してしまったわけよ」
「へぇ、すごいね。……ていうか、部活ってたしか、オカルト研究部だよね? ……ボードゲーム?」
隣の席から話し声が聞こえる。今日も相変わらずの美声だ。いま森木と会話している相手は本当は僕のはずだった。今日こそ話しかけるつもりだったのだ。しかしそうしようとしたまさにそのとき、折悪く許斐がやってきた。だから僕は決心した。話しかけるのは、明日にしようと。
「ね、今日さ、部活休みだから、どっか遊びに行かない? 映画でも観ようよ」
「奏音、映画好きだね。うんいいよ、何観る?」
「えーと、いまやってるのは……これとかどう?」
「ホラーはこの間観たじゃない。……あ、これとか気になるかも」
「え、それ? 百合映画じゃん。千智、そういうの苦手じゃなかったっけ?」
「苦手ってこともないけど……。まぁ、たしかに、それほど積極的には観てこなかったかも」
「なになに? どういう心境の変化? ……あ、もしかして、例の先輩の影響?」
「え? あー……まぁ、そうかも」
「ふむ……。とある女の先輩と親しくなり、それがきっかけで百合に目覚める……。なるほど、そういうことか。千智、つまりあなたは新しい世界への扉を開けてしまったんだね」
「え? いやいや違うよ、そうじゃなくて——」
「いいっていいって隠さなくて。今時、そんな珍しいことじゃないよ。あたしもべつに、そういうのに偏見ないし」
いやだから違くて——。まぁまぁまぁ、話は映画館に行く途中聞くから。二人の声が遠ざかっていった。
突き抜ける青空。太陽の白い光がグラウンドを眩しく照らす。湿気を帯びた風は心地よいとは言い難いが、それでもいくらか身体を軽くしてくれる。今日もなかなかの練習日和だ。
「——で?」
と俺は、隅の一角で地球の重力を一身に背負ったかのように小さく丸く体育座りをしている後輩に目を向ける。
「う……うぅ……ううぅ……」
「……お前はなんでまた落ち込んでるんだ?」




