普通のテスト中
しんとした教室内。みんなは机の上の紙にカリカリとペンを走らせる。一方、途中まで埋まった回答用紙を前に、わたしの体はぴたりと硬直して動かない。
――どうしよう。
――机の中に、蜘蛛がいる。
テスト中、ヤツは気づくと机の上にいた。思わず「ひっ」と声が出そうになったのを堪えていると、ヤツはサササと机上を移動し、机の物入れの中へと入っていった。それからもう何分経ったろう。蜘蛛は机の中で身を潜めたまま、出てこない。
どうしよう。追い払おうにも相手の姿は見えないし、机の中を覗き込んだりしていたら周りからカンニングだと思われそう。直接触りたくないから、手探りで探すのも嫌だし……。
教室の前方に目をやる。テスト監督の狩根先生は教卓で腕を組んで寝ている。テスト監督ならちゃんと監督してよ……。とにかく、先生は頼れない。自分でなんとかするしかない。
まずはヤツがどこにいるのかを確かめないと。直接触らずに……シャープペンの先とかで? ……いや、だめだ。それだと感触がわかりづらいし、位置を確かめようと中をまさぐっているうちにうっかり潰しちゃうかもしれない。机の中で潰れた蜘蛛を想像したら……ああ、無理無理……! やっぱり自分じゃ、どうにもできない……!
誰か助けて、と周りを見るけれど、当然ながらみんなテストに集中していて誰とも目が合わない。――と思ったそのとき、奇跡的に一人と目が合った。野村くん。野村くんには、前に授業中お腹が鳴りそうになったときに助けてもらったことがある。今回も力を貸してくれないだろうか、と必死に目で訴える。
静まり返った教室内には紙にペンを走らせる音だけが響く。俺の名は野村純平。この物語の主人公だ。本来の名はエスカルダ王国王宮魔術師、グランドマスターメイジ・ジュンペーヌなのだが、こちらの世界に転移してきてからは高校生・野村純平として日々を送っている。
さて、そんな俺は現在、テストを受けている。王宮魔術師の最高位・グランドマスターメイジである俺にかかればこのような問題、ゴブリンの腕を捻るがごとく簡単なのだが、あえて全問正解はしないことにしている。あまり成績が良すぎると誰かに不審に思われ、正体に勘付かれる恐れがある。だからあえて問題には間違えることにしているのだ。そう、あえてだ。
そうして、全体の約半分ほどが空欄のままの回答用紙を満足感をもって眺めていると、隣の席の池田がなにやらキョロキョロと辺りを見回しているのに気が付いた。池田かの。彼女もまたエスカルダ王国からの転移者で、本来の名はエスカルダ王国第一王女・カノーラ姫なのだが、俺同様、真の身分を隠して生活を送っているようだ。いったいどうしたのだろうと見ていると、ふいに目が合った。そのまま眉間に力を込めたような顔でこちらをじっと見つめてくる。
……なに?
――よく考えたら、伝わるはずない。
そりゃそうだ。目を見るだけで「机の中に蜘蛛がいます。追い払いたいので助けてください」と伝わるんだったら、言葉なんか要らないじゃないか。
かといっていまはテスト中。小声でも声を出すのは憚られる。声を出さずに伝える方法……といったらもう、これしかない。
わたしは野村くんを見ながら、まず机の物入れを指さした。そして次に、顔の横に広げた手をわしゃわしゃさせ、わたしの表現できる限りの「蜘蛛」を表現する。精一杯のジェスチャー。
お願い。これで気づいて、野村くん……!
池田の身振り手振りを見て、俺ははっとする。なんだって? 池田、本当か?
魔王軍がこちらの世界に攻めてこようとしている、だって――――⁉
池田が顔と手で表現しているあの形――間違いない、あれは魔王軍のシンボルマーク、コウモリの紋章だ。池田が机の中をしきりに指さしているのを見るに、どうやらそこに何らかのきっかけでワームホールが開き、魔王軍がそこを通ってこちらの世界に侵攻してこようとしている、ということだろう。信じがたいことだが、間違いない。池田の必死な様子を見れば、それが嘘や冗談でないことは明らかだ。
なんてことだ――こうしてはおれん! 魔王軍の軍勢がこちらの世界にやってくる前に何か手を打たなければ! 何よりまず池田――カノーラ姫の身の安全を確保することが先決だ。俺の結界魔法で池田の身を守るバリアを作って……
――いや、待てよ。ワームホールが開いたということは、そこを通ってこちらからエスカルダに行くこともできる状態にあるということ。ならばワームホールが開いているいまのうちに元の世界に帰ってしまえばよいのでは?
うむ、それだ。どうやら池田は気が動転していて、そのことに気づいていない様子。俺は自分の机の物入れに手を入れ、中から白紙のルーズリーフを一枚取り出した。半分に裂き、メッセージを書いて丸め、池田の机に投げる。
〈すぐに帰れ。俺もあとから追いかける。〉
「……」
え、なんで? 家に帰れってこと? ……いやまあ、たしかにそうすれば蜘蛛からは逃げられるけど……テストはどうすればいいの? ……あとなんで、野村くんもあとから追いかけてこようとしてるの?
あ。……そうか、野村くんはきっと、わたしがもうテストの問題を全部解き終わったと思ってるんだ。この時間のテストが今日最後だし、それならもう帰ってしまっても問題ないだろうと。
ごめん野村くん、わたしまだ問題全部解き終わってないんだ。せっかくのアドバイスだけど、何か他に方法はないかな……?
わたしは野村くんのメッセージの下に返事を書き、丸めて野村くんの机に投げた。
〈まだ帰れない。追い払う方法はないかな?〉
「……」
え、なんで? と思いすぐに、はっと思い直す。
そうか……池田は、この世界のことを案じているんだ。自分たちが帰ったあと、魔王軍の侵攻を受けたこの世界はどうなってしまうのかと。それを放っては帰れない、どうにか魔王軍を追い払う方法はないか、ということだろう。
……なるほど、たとえ住む場所が変わっても姫は姫。王族のひとりとして、民を思う気持ちは変わらない、か……。姫、ご立派になられて……。
――となれば、残る方法は一つ。ワームホールを封じてしまうしかない。とはいえ事は一刻を争う。俺は先ほど裂いたルーズリーフの片割れに急ぎペンを走らせ、池田の机に丸めたそれを投げた。
〈机ごと破壊しろ〉
なにそれ――――⁉
い、いや、机ごと? なんで? 野村くん、そんなに蜘蛛嫌いなの?
い、いやまぁ、わたしだって蜘蛛は苦手だけど……でも蜘蛛に罪はないし、ましてや机にだって罪はないし、そもそも破壊する方法もわからないし――。
他にもっと平和的に解決する方法はないかな……。いろいろアドバイスしてくれてるのに、わがまま言ってごめん、野村くん。返事を書き、野村くんの机に投げる。
〈生かしたままどうにかする方法はありませんか?〉
……なぜ敬語? まあ、それは置いておくとして、俺は書かれた内容を見た瞬間、思わず目頭が熱くなった。
池田は……姫は、机を「生き物」として見ているのだ。それを無慈悲に破壊するのは忍びない、と。王族たるもの、森羅万象――無機物にさえ、生命の息吹を見出す。その慈愛に満ちた心遣いには敬服の至りだ。
ならばもはや、グランドマスターメイジたるこの俺が直接対処するしかない。方法は考えるとして、まずは池田に席をどいてもらう必要がある。またメッセージを、と机の上に目をやり、白紙の紙がもうないことに気が付いた。
仮にもこれは姫に送る書簡。一度使用した用紙では不敬に当たる。新しいルーズリーフを取り出そうと物入れに手を入れると、指先に妙な感触があった。
そのまま手を外に出してみる。と、左手の人差し指に小さな蜘蛛が乗っていた。席を立ち窓を開け、外の壁に這わせて逃がす。
あの蜘蛛、もしかして……。
狩根先生がまだ寝ていることを確認して、机の中をそっと覗き込む。
……いない。いなくなってる。ひょっとしていまの間に、いつのまにか野村くんの机に移動していたのかな……。
わたしは問題用紙のもう解き終わった問題のページを、音がしないよう静かに破いた。
蜘蛛を逃がして席に戻ると、机の上に丸まった紙が載っていた。開いて見ると、〈ありがとう! おかげで助かったよ〉の文字。
横を見る。池田がにこりと微笑んでこちらを見ている。
……どういうこと?
ワームホールが時間によって自然と消滅した、ということだろうか。それによって魔王軍の侵攻はくい止められた、と……?
もう一度、ちらと隣に目をやる。
うん、まぁ、おそらくそういうことなのだろう。あの笑顔がきっと何よりの証拠。
この世界に迫る危険は去った。ワームホールは蜘蛛の子一匹通さぬまま、静かに閉じられたのだ。




