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大きな契約を締結した日だ。
残業なんてとんでもない。
「柴崎くん、今日はもう帰っていいよ」
時刻は15時になろうとしている。
「え!帰社します。まだやりたいことあるんで、勤務時間ですし」
真面目だなぁ。
「そ。じゃ、タクシー拾って一緒に戻ろうか」
こんな彼氏がいたら、私の人生もっと充実するのにな。
そっと隣の男性を盗み見る。
すっきりとした目鼻立ちで、肌がきれいだ。
「御園さんのお嬢さんっておいくつ?」
「23歳だそうです」
「お若いのね。お綺麗な方なの?」
「いや、2歳しか違わないじゃないですか。彼女は素朴な感じで、綺麗と言うか……そう言う意味では東さんの方が綺麗ですよ」
褒めてもらったのに、負けた気がした。
私には素朴さがないと?
……ま、打算的なところは自覚があるけど。
「御園様に営業かけないの?」
「友香里さんにですか?」
「そう。働いていらっしゃるんでしょ?『オイル・リザーブ・ファンド 10』なら行けるんじゃない?柴崎くん得意でしょ?」
「投資はしたことないって言ってましたし、春から働き始めたばかりのようですし、NISAとかで充分なんじゃないですか?」
「あら。『弊社の商品なんか売れません』って言われたみたいで、なんかちょっと傷ついた」
「まさか、そんなこと言ってないですよ……」
困らせたい。もっとその顔が見たいから。
「契約するかどうかは彼女、友香里さんだっけ?が決めることだけど、商品紹介は是非して欲しいわね。柴崎くんは我が社の期待の営業なんだから」
「……はい」
オフィスに戻り、賢也にチャットを送る。
『いつ帰国?』
出発するのは聞いたけど、戻りを確認しなかった。
柴崎くんの言ってたように、既読はつかなかった。
騒がしい音楽の中、人とぶつからないと歩けないフロアで、おしゃべりをしている。
と言っても相手の言っている事は音楽にかき消されて聞こえてない。
ただにっこりと笑って、頷くだけ。
「2人で抜けない?」
腰に手を回され、耳元で言われればさすがに聞こえる。
この人とは前にも一度そんなことがあったような……
首を横に振る。
今日はそんな気分じゃない。
グラスを置いて、DJブースの前に行く。
スマホの画面にリクエストの曲を出し、掲げると、ウィンクが返ってきた。
なんだかずっと苛々している。
賢也の荒々しいセックス、柴崎くんの透明感、顔も知らない女への嫉妬……全部忘れたい。
お酒で思考を混乱させ、フロアで身体を動かして、ただ好きな曲に身を委ねたい。
会社の業績、顧客の嫌な態度、賢也の帰国を知らない私、私を誘ってくるあの男の視線、自分が女であること……私を縛り付けてくる全ての感情から解放されたい。
これでよかったんだっけ。
これがしたかったんだっけ。
不満なんてないのに、満足できない。
頭の中に詰まっているものを振り払うように、首を振り続ける。
無くなれ……無くなれ……無くなれ……無くなれ……
音で肌を叩かれているように、音楽が体中に充満してくる。
気持ちがよくなって、もうこのまま……ずっと……
解放された魂が、私の心に打ち勝った。
「まど香」
その瞬間……
快感の絶頂から私を引きずり降ろしたのは、賢也だった。
感情のこもっていない大きな黒目。
「お帰り」
私が勝手に振り回されただけなのに、賢也に冷たく当たってしまう。
目を瞑り、身体を揺らし、頭を振る。
もう……さっきまでの快感は掴めなくなっていた。
「ふぅ」
息を吐ききって、カウンターバーに向かった。
付いてきた賢也には目をくれない。
「ジントニック」
乾いた喉を、爽やかな柑橘とソーダで潤した。
「帰ろう」
頬が触れ合う距離に賢也の顔がある。
ムカつく……
断りたいのに、言いなりになってしまう自分に腹が立つ。
賢也は手を繋いでくれることも、肩を抱いてくれることもしない。
ただ、腕が触れるかどうかの近い距離で歩く。
「チャット見なかったの?」
「ああ」
「仕事の用事もあるから、開くようにしてくれない?たまにでいいから」
「さっき見た」
そっか。一応見てくれたんだ。
「柴崎くんと鴻池様のご自宅に伺ったの。契約もらえたよ」
「よかったな」
他人事みたいに、嬉しそうでも無いし、賢也はいつもこう……
「柴崎くんっていい子だよね。お客さんに好かれそう」
「……」
「空気読めるし、私も話してて楽しいからだんだん彼の魅力に憑りつかれて」
急に賢也が立ち止まって、私は振り返った。
「賢也?」
じっと目を射貫かれる。
「寝れば?」
怒ってるでもない、楽しんでるでもない、抑揚のない声。
「え?」
「柴崎誘って、寝ればいいじゃん」
私の横を通り過ぎて先を行く賢也。
「なにそれ?社員に手出すとか最低じゃん、上司として」
胸の中に叫びたくなる感情が渦巻いてくる。
『どうしてそんなこと言えるの?』って『私の事、どう思ってるの?』って、賢也の気持ちを聞いてみたい。
私を振り返らずに歩き続ける賢也の背中から目を逸らした。
そう。いつものように。
こうして、見たくないものから目を逸らして私は生きていく。
私は最低な生き物だから。




