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黒瀬さんに誘われた夜のことが忘れられない。
入ったスペインバルには、背の高いテーブルとイスがあり、黒瀬さんは寄っかかるように腰を掛けた。
私はイスの脚を使って乗っかるように座り、当然、足は床に着かなかった。
「お付き合いいただきありがとうございます。柴崎との時間を邪魔して申し訳ありません」
本当にそう思っているのだろうかと疑いたくなるような淡々とした口調だった。
「いいえ。大丈夫です」
柴崎さんといる時には感じない種類の緊張が、喉の奥に張り付いて離れない。
つい動かしたくなる宙ぶらりんの足を絡めて動けないようにした。
「適当に頼んでいいですか?」
メニューに目を落とす黒瀬さんからは、何か特殊なものが放たれているのだろうかと思うほど纏っている空気に違いを感じる。
「サングリアなんていかがですか?」
「はい。いただきます」
丸テーブルには生ハム、アヒージョ、ピンチョス、コロッケのようなものが並び、カットした果物が添えられているサングリアで乾杯をした。
「柴崎から弊社の商品を紹介されたそうですね」
抑揚のない世間話のような声なのに、私は喉の奥がひりついた。
「先日のご自宅に伺った際にも感じましたが、友香里さんは何か疑っていらっしゃるんでしょうか」
口に入っている生ハムを飲み込むことが出来ず、震えそうになる足に手を置いた。
ゆっくりと咀嚼し、ようやく飲み下すと、サングリアを一口含んだ。
ツンとした柑橘とワインの酸味で、はっきりと意識を取り戻す。
言わなくてはならない……思っていることを伝えなくては……
ドキドキし過ぎて、口から心臓が飛び出しそうだ。
「私の勘ぐり過ぎだと分かっているんですけど……もしかしたら騙されているんじゃないかと……」
黒瀬さんはゆっくりとサングリアのグラスを揺らした。
息を詰めて黒瀬さんの反応を見守る。
「そう言われることはよくあります」
ふっと目を逸らし、悲しそうに微笑む姿に胸が痛んだ。
「お気を悪くしましたよね。すみません」
「仕方がありません。きちんと説明ができない私どもの不手際です」
ご自身を責めているように見える黒瀬さんに申し訳ない気持ちになったけど、これ以降、仕事の話はしなくなった。
生い立ちや趣味などを聞かれ、とつとつと思い付くままにお話しした。
話す前に持っていた印象は180度覆されて、話しやすさと、会話の間のとり方の心地よさに魅了された。
「友香里ちゃん、どうかしたの?」
不意に掛けられた言葉に、はたと我に返る。
「もうお昼だよ?」
仕事中にぼうっと黒瀬さんの事を考えてしまって……サボってるって思われたかな。
「今日もお弁当?一緒に食べよ?」
私より3つ年上の先輩は、シングルマザーで3歳のお子さんがいる。
私の年に出産を……男性経験どころか、恋愛の経験すら無い私には想像もつかない。
事務所の非常階段を出て、小さな屋上に上がる。
天気のいい日は、よくここでお弁当を食べている。
「ねえ、友香里ちゃん、NISAって知ってる?」
「はい。非課税で投資できる制度ですよね?」
最近、読んでいる本の内容を思い浮かべた。
「さすがだね!やってたりする?」
「いいえ。まだ証券会社に口座すら持っていません」
「やっぱりそうだよねー。子どもの学資保険の代わりに始めようか悩んでるんだけどどう思う?」
「保険とは違って元本保証はされないので、減るかも知れないみたいです。でも、長期で預けるなら……お子さんの高校とか大学入学まで10年以上あるので、増えてる可能性は高いみたいですよ」
「そっかぁ。減っちゃうのは困るよねぇでも、保険なんてちっとも増えないんだよ。間を取ったちょうどいいのとかないのかね?」
ふと、『オイル・リザーブ・ファンド 10』を思い出す。
予定年利6%の運用で、元金保証はない。
でも、過去の配当は下がったことはないし、今のところ5年後の解約金は満額想定だと言っていた。
裏を返せば、10年後に満額返金で解約できれば、10万円は16万円になって返って来ると言うことだ。
明るい笑顔で勧めてくれた柴崎さんと、真剣な表情で補足説明をしてくれた黒瀬さんを同時に思い浮かべる。
あの二人が面と向かって嘘をついているようには、到底思えない。
だけど、自分が買ってもいない商品を先輩に勧めるなんて、どこか間違っている気がして……慌てて浮かんできた数字を頭から振り払った。
「友香里ちゃん、どうしたの?」
「何でもないです」
後ろめたい気持ちに苛まれる。
先輩が探している投資先を知っているのに、黙っている事が、自分だけいい思いをしようとしてるんじゃないかって気にさせて心苦しい。
今夜、柴崎さんに会ったら、もう一度聞いてみよう。
そして、納得出来たら私も『オイル・リザーブ・ファンド 10』を買ってみよう。
『安全な商品だよ』『私もやってるんですよ』って言えたら、先輩にも教えてあげればいいんだから。
……そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
この感情がどういう意味を持つのか深く考えず、私は午後の仕事に戻った。
いつもの18時、駅前北改札口。
前回、副社長の東さんを連れて来られたから、ひょっとして今日もと思っていたが、柴崎さんお一人だった。
「こんばんは。実はですね……今日、休館日らしいんです」
私はこの事実を知っていたのに、事前に柴崎さんに伝えなかった。
『オイル・リザーブ・ファンド 10』の話を伺いたくて……これって騙したことになるのかな。
「そうだったんですね。でもせっかく来たので、今日は食事をしながらおしゃべりする形式でどうでしょうか?コーヒーだけってのもあれなんで、どこか店に入っちゃいます?」
理想通りの返しを柴崎さんから得られてほっとする。
「はい。お好み焼き屋はどうでしょうか?」
予め調べておいたお店を提案してみる。
半個室になっていて会話が漏れにくいし、焼いている時間を利用して話せるのが都合がいいと思った。
「最高ですね!実は僕、友香里さんにお話したい事があって……」
困り笑いを浮かべて、柴崎さんが頭を搔いていた。
たぶん、私も同じ顔をしていたと思う。
私たちはきっと、下心を隠す事が苦手な似た者同士なんだろう。




