第十六話 老害の単騎無双
眩い転移の閃光が収まり、俺が足をついたのは――。
先ほどまでの地下大空洞とは比べ物にならないほど凍てついた、未知の氷結回廊だった。
周囲の空気は肌を刺すというより、吸い込むだけで肺が凍りつくような絶対零度の殺気を帯びている。
(さて、どうしたものか)
俺は白く染まる息を吐きながら、冷ややかな目で周囲を見回した。
足元に残る転送陣の魔力残滓をひと目見れば、それがダンジョン本来の自然発生的なエラーなどではなく、不自然に座標を固定された人工的な空間干渉であることくらいはすぐに分かる。
……そういえば、と思い出す。
俺達より先に、『ストライド』の精鋭部隊が氷獄ダンジョンに足を踏み入れていた。
奴らはなぜ俺たちより先に、あんな深層へと急いで潜ろうとしていたのか?
『深淵の胎動』のような、魔力を爆発的に吸収する厄介な怪物が巣食っていることは、探索者の間ではそれなりに知られているはずだ。
しかも、あの沙耶の所属する古城財閥が研究所を設置して研究を重ねている場所なのだ。
まともな組織なら、そんな危険地帯へ無闇に戦力を突っ込ませたりはしないはずだが――。
なのに、なぜ『ストライド』の連中はあんなにも強引に部隊を送り込んでいたのか。
(……なるほどな)
俺は顎に手を当て、一人で勝手に納得の答えに行き着く。
(俺を救い出すためか)
かつて自分に解雇通告を突き付けた、クラン代表の真田の顔をふと思い起こす。
根性論の老害と吐き捨てていた彼らが、配信での驚異的な反響や、玲奈ちゃんの昇給試験、そして聖や沙耶の激変ぶりを目の当たりにして――「自分たちのやり方が間違っていたのでは」と焦り、翻意した可能性は大いにある。
(名コーチである俺を救い出すため、わざわざ奥地まで安全に避難させるための転送プログラムまで遠隔で起動してくれた、というわけか)
真田が血眼になって自分を邪魔者扱いし、追い出そうとしていることなど微塵も疑わず。
「ストライドの連中が自分の身を案じて、わざわざ親切にレスキュー(転送)してくれた」という、完全にめでたい誤解を胸に。
俺はポケットに手を入れたまま、のんびりと歩き出した。
フォオオオオオオオオッ……!!
前方の凍てついた闇から、地響きのような唸り声が響いた。
姿を現したのは、通常のモンスターとは比較にならない。
深層の魔素が凝縮して生まれた氷の巨兵だった。
数メートルの巨体に、ダイヤモンドよりも硬い氷の鎧を纏い、視界に入るものすべてを粉砕しようと巨大な氷の拳を振り上げて突進してくる。
さらに、巨兵が咆哮した瞬間、周囲の空間温度が急激に低下し、すべてを凍てつかせる極寒のブリザードが回廊を暴風のように駆け抜けた。
常人であれば、その圧倒的な質量と、骨まで凍りつくような極寒の暴風を前に、反射的に防御魔法を展開するか、暖を取ろうと魔力を燃え上がらせてしまう場面だ。
だが、俺は微動だにしない。
(――来るか)
叩きつけるような吹雪が、俺の衣服を、肌を、そして髪を容赦なく白く染め上げていく。
だが、俺はそれを弾き返そうとなど微塵も思わない。
寒さに震え、体温を奪われそうになる焦りを、深い呼吸とともに完全に沈めていく。
焦るな。抗うな。
寒さも、暴風も、すべてそのまま「受け入れろ」。
派手なスキルなど要らない。
莫大な魔力を練り上げる必要もない。
必要なのは、外部の暴力的なまでの環境すら丸ごと飲み込む、究極の「忍耐」――。
寒い。
冷たい。
感覚が失われていく。
でも、耐える。
ただ、そこに凍てついた大地と同化して、正しく「在る」ことだけだ。
ブリザードの冷気が俺の表層を包み込み、文字通り肉体の表面をガチガチの氷の鎧へと変えていく。
冷たさを我慢するのではなく、冷たさそのものと一体化する。
外部の氷結をそのまま自分の硬度へと変換し、全身が鋼鉄ならぬ不壊の氷へと硬化していく。
その極限の硬化状態のまま、俺は一歩も引かずに立ち尽くした。
巨兵が振り下ろした数千トンの破壊力を秘めた拳が、頭上へと迫る。
そのコンマ一秒の瞬間。
ブリザードを纏い、自らも氷壁へと化そうとする俺の肉体で、わずかな異変が起きた。
極限の「忍耐」によって心拍、体温、そして全身の毛穴に至るまでを完全に支配していた俺は、あえて皮膚の表面に「微量の汗」をじわりとにじみ出させた。
通常の人間なら、極寒の中で汗をかけば一瞬で凍りつき、かえって体温を奪われて自滅する。
だが、俺のコントロール下にある汗は違う。
そこに含まれる水分と塩分バランスは、周囲のブリザードの冷気と噛み合うことで、驚異的な化学反応を引き起こす。
――塩分による凝固点の低下と、それに続く急激な再結晶化。
俺の全身の表面で、吹き出した塩分を含んだ薄い水膜が、冷気と接触した瞬間に爆発的なスピードで、異次元の硬度を持つ塩氷の結晶へと変化・結合していく。
それはただの氷の鎧ではない。分子レベルで結合密度を高められた、あらゆる衝撃をシャットアウトする、究極の硬化防壁だった。
ガガァァァンッ……!!
巨兵の拳が、俺の肉体に叩きつけられる。
だが、俺の体は一ミリも揺らいでいない。
それどころか、ぶつかり合った接点で、微量の汗から生み出された塩分と緻密な結晶が、巨兵の放った全エネルギーと周囲の冷気のすべてを完璧に受け止め、一気に巨兵の腕の内部へと逆流・結晶化させていく。
「――知っているか? 氷というものはな、純度が高ければ高いほど、分子の結合密度が跳ね上がり、鋼鉄をも凌駕する硬度を持つ」
氷の巨兵相手に、俺は静かに語りかける。
「深層の魔素がただ荒々しく固まっただけの氷の巨兵。それは空気が混じり、不純物に満ちた『白氷』に過ぎない。純度が低いからこそ、強い衝撃を受ければ簡単に砕ける脆い代物だ」
フォォォォォ!!!!と巨兵が咆哮する。
だが、パキリ、パキリ、と氷の巨兵の拳に亀裂が走っていく。
「いいか? 氷はな、純度を極限まで高めれば、分子の隙間が消え去り、どんな金属よりも硬い最強の防壁になる。対して、俺の肉体を覆うのは、極限のコントロールと塩分の触媒によって一切の不純物を追い出した究極の硬化防壁だ」
巨兵の拳を包んでいた粗雑な氷の鎧が音を立てて曇り、そこから一筋の亀裂が枝分かれするように巨大な腕全体へと走った。
「お前のその粗削りな塊じゃ、俺のこの純度な氷の一膜すら傷つけられんよ」
爆発すらない。
自らの攻撃の全エネルギーと、塩分によってさらに凍てついた圧倒的な硬化プレッシャーに内側から芯まで凍りつかされ、巨兵の巨体はまるで寿命を迎えた氷柱のように、音もなく崩れ落ちて粉々に砕け散った。
冷たい氷の回廊に、サラサラと氷の粒子が舞い散る音だけが静かに響く。
「ふう……。いい汗をかいた」
俺は敵の残骸を跨ぎ、さらに回廊の奥へと歩き出そうとした――その時だった。
「……ん?」
一歩を踏み出そうとした足が、ピクリとも動かない。
それどころか、腕も、首も、呼吸をするための胸郭すらも、まるで見えない重しを乗せられたかのようにピタリと硬直している。
視線を下に向ければ、そこにあるのは周囲のブリザードと自身の汗の塩分が結びついて完璧なまでに純度を高め、分子の隙間すら消し去った、あの究極の硬化防壁だった。
(あれ?)
俺の脳裏に、ふと冷や汗が走る。
あらゆる衝撃をシャットアウトし、巨兵の全エネルギーを跳ね返した、鋼鉄をも凌駕する最強の氷の防壁。
それは裏を返せば、「生身の人間を、内外のあらゆる干渉から完璧に遮断して氷漬けにする、最高性能の永久保存カプセル」に他ならない。
(……待て。氷漬けにされてないか、俺?)
肺に溜まった息を吐き出そうにも、気管の表面まで見事な結晶化を遂げているため、声すらまともに外へ漏れない。
じわりと、全身の体温が急速に奪われていく感覚が戻ってくる。
(……やべえな、これ)
敵の攻撃でも、ダンジョンの罠でもなく、完璧すぎる硬化のせいで、自らを生きた氷のオブジェにしてしまい、このままではガチで凍死するという予想外すぎる詰み。
最強の「忍耐」の果てに待っていたのは、まさかの自滅という名の絶対零度だった。
「……っ……」
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