第十五話 空(くう)
沙耶は世界を救った自慢の魔導杖を、あえて地面にそっと置いた。
杖による増幅も、絢爛豪華な詠唱もいらない。
彼女は両手を軽く広げ、怪物の放つ魔力のうねりと自らの魔力回路を直結させる。
しかし、それは吸収させるためではない。
敵の魔力循環のテンポを完全に読み切り、その内部で「魔術の気配を寸分たりとも発生させない」という、至難の技――「空の魔術」の構えだった。
(先生、わたくし、忘れておりません――)
かつて粕谷のコーチングの中で気づかされたのは、自分がこれまでいかに我流の派手さに頼り、足元を見失っていたかということだった。
あの日の粕谷の背中は、いま思えば途方もなく大きく、遥か高みにあった。
だが、あの男はいつも、そんな沙耶の想像を軽々と超えてみせる。
『深淵の胎動』の攻略法。
それすらも「忍耐」でねじ伏せられると、確信を持って言い放ったのだ。
先ほど見せつけた聖の鮮烈な「静寂の剣」――。
剣聖である彼が己の我欲を捨て、先生の教えを完璧に体現して見せたのなら、大魔導師である自分が遅れをとるわけにはいかない。
自分は世界最高峰の大魔導師と讃えられてきた。
だが、粕谷に座ったとき、自分はただの無知な「子供」に戻されていたのだ。
だからこそ、今ここでその教えを完璧に体現してみせる。
沙耶は雑念をすべて捨て去り、自身の存在を怪物の魔力の海へと完全に溶かしていく。
それは、激しい魔法戦とは似ても似つかない、極限の瞑想状態だった。
あふれ出る魔力を抑え込み、雑念を削ぎ落とし続けること――それ自体が、彼女にとっての過酷な「忍耐」の修行そのものだった。
――耐えろ。焦るな。己の気配を徹底的に殺せ。
頭の中の濁りがすべて消え去り、意識が研ぎ澄まされていく。
物質的な肉体の感覚が薄れ、周囲の魔力の流れが「情報」として脳裏に直接流れ込んでくる。
情報空間の海へと深く、深く意識を潜り込ませる。
『……ガァ……ッ……!?』
ひざまずいた『深淵の胎動』の足元から這い上がろうとしていた残余の魔力が、沙耶を獲物と認識して再び不気味な吸引を行おうとした。
通常であれば、魔導士が魔力を解放した瞬間にそのエネルギーを根こそぎ奪い取られる致命的なトラップだ。
だが、沙耶の周囲には、魔力の「匂い」が一切存在していなかった。
そこにいるのは、魔術の光でも、詠唱の波動でもない。
ただ徹底的に無駄を削ぎ落とした「空」の領域。
怪物の触手が沙耶の魔力回路に触れようと伸びてきた瞬間、吸い取るべきエネルギーの芯を見失った触手は、まるで何もない虚空を掴むようにすり抜けていく。
「――無駄ですわ」
沙耶の唇が静かに動く。
声ですらない、意識の波長だけで紡がれた魔力の制御。
沙耶は、情報空間の底で暴れ回る怪物の魔力循環の「核」を正確に見定め、自らの意識をそこにスッと滑り込ませた。
攻撃するのではない。
魔法を叩き込むのでもない。
ただ、怪物が必死に回そうとしている循環システムのテンポに、自らの「忍耐」によって極限まで安定させた意識の波長を完全に同調させ――そして、ピタリと「止める」。
まるで、暴走して回転し続ける歯車と歯車の間に、完璧なサイズの一片の楔を挟み込むように。
『――ギ……ギギ……ッ…………!?』
怪物の巨体が、最後にガクリと大きく揺れた。
体内で澱のように渦巻いていた莫大な魔力回路が、沙耶の介入によって完全に同期を狂わされ、内部からピタリと停止させられたのだ。
暴走の予兆も、再生のうねりも、すべてが氷のように冷たい静寂の中へと沈んでいく。
ドスン、と。
かつて無敵を誇り、ストライドの精鋭部隊を瞬く間に飲み込んだはずの巨獣は、完全に息を潜め、ただの動かない氷のオブジェへと変貌を遂げた。
〈……え……?〉
〈いま……魔法、使ったか……?〉
〈杖も持ってないのに、ボスが勝手にシャットダウンしたぞ……!?〉
〈サーヤ様……すげえ……っ!!〉
配信のコメント欄は、信じられない光景を目撃した観衆の、割れんばかりの絶叫とどよめきで埋め尽くされていた。
沙耶はふうっと小さく息を吐き出し、そっと目を開く。
その額にはうっすらと汗が滲んでいたが、表情にはこれまでにないほどの晴れやかな達成感が満ちていた。
振り返ると、すぐ後ろで腕を組んだまま、俺がいつものようにやれやれと首を振っていた。
「……上出来だ。お前たちの『忍耐』は、もう誰にも負けない」
その言葉を聞いた瞬間、聖と沙耶は顔を見合わせ、思わず満面の笑みを浮かべるのだった。
世界を揺るがす最強の二人が、ただ一人の「おっさんコーチ」の教えによって完全に覚醒した瞬間だった。
だが。
『――ガ……ガガ……ギ……ッ……!』
「……っ!?」
静まり返ったはずの地下大空洞の底から、凍てつく空気を切り裂くような、ひしゃげた異音が響いた。
討伐されたはずの『深淵の胎動』の巨体が動いたのではない。
その足元、巨大な氷の床が内側からメキメキと音を立てて裂け、おぞましい真紅の魔導陣が突如として浮かび上がったのだ。
〈おい、嘘だろ……まだ動くのか!?〉
〈いや、違うぞ、魔力の質がさっきと完全に違う……!〉
〈なんだこれ、外部からのハッキング……!?〉
視聴者の悲鳴のようなコメントが流れる中、足元の空間がぐにゃりと歪み始める。
それはダンジョン本来のギミックなどではない。
あまりにも悪質な、外部からの強制転移プログラムだった。
「――先生っ!?」
聖が叫んだ時にはすでに遅かった。
眩い青白い閃光が爆ぜ、俺と二人の足元の空間が引き剥がされるように分断されていく。
「くっ……!」
空間の裂け目に飲み込まれる瞬間、俺の視界の端に映ったのは、真田の企みを示す冷徹な笑みと――未知の深層へと一人放り出されていく我が身の影だった。
――厄介なハエが、いよいよ本格的にしっぽを出しやがった。
視界が真っ白な光に塗りつぶされる直前、俺は静かにそう呟き、漆黒の闇へと姿を消したのだった。
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