第十四話 静寂(しじま)
沙耶が歯噛みした瞬間――。
『深淵の胎動』の巨体から、周囲の空間ごとすべてを飲み込もうとする暴走した全魔力が一点へと収束していった。
バリバリと音を立てて周囲の氷の壁が砕け散り、最悪の暴発が迫る。
「聖! 沙耶を守ってやってくれ――ッ」
俺の叫びに、聖は背中で答えた。
「――了解です!」
聖は息を吸い、その場に深く沈み込むように腰を落とした。
そして、愛剣を――あえてスッと完全に鞘へと収める。
最強の剣聖が、暴走する怪物に向かって抜刀すらしない。
その信じられない光景に、配信のコメント欄が一時パニックに陥る。
〈え、剣納めた!? 死ぬ気か!?〉
〈いや、待て、おっさんの指示だぞ……!〉
聖は目を閉じ、外部の喧騒を完全に遮断した。
❖
『剣聖』と祭り上げられ、己の才能と派手な必殺技に溺れ、いつしか我流の傲慢という「心の錆」をまとっていった日々。
強くなればなるほど、見えない焦燥感に追われ、本当の「基礎」を見失っていた。
(違う。俺が求めていた強さは……あんな見せかけの華やかさじゃない!)
ガキの頃、剣の振るい方も知らずに泥臭く基礎を叩き込まれていたあの原点。
己の我欲を捨て、ただ敵のテンポと同調し、正しく「耐える」ことこそが――粕谷が教えてくれた最強の生存スキル。
「すべての我欲を断て……!」
かつて彼を「剣聖」たらしめた華麗な剣技も、無駄な殺気もいらない。
ただ、目の前で暴れ狂う怪物の鼓動――その不規則で荒々しい「呼吸」の音だけに、自らの意識のすべてを同調させていく。
(……早い。だが、合わせるな。あいつの呼吸の『隙間』に、自分の息を滑り込ませるんだ)
脳裏に浮かぶのは、あのボロアパートのちゃぶ台の向こうで、冷めたコーヒーを飲みながら教えられた基礎の理屈。
――剣とは敵を斬るためのものにあらず。
――敵の暴力的なテンポを断ち切るための「静寂の楔」である。
「……はぁっ」
聖が、細く、長く、完全に無音の息を吐き出した。
その瞬間、聖の身体から一切の気配が消え失せた。存在そのものが、氷獄ダンジョンの冷たい空気の中に完全に溶け込んでいく。
それは、魔獣にとって「認識できない存在」――完全なる静寂の領域。
心に巣食う全ての錆を「忍耐」で削ぎ落とした、極限の精神状態。
――直後、異変が起きた。
獲物の発する魔力や敵意を感知して吸収するはずの怪物は、目の前にいるはずの聖を「認識」できなくなっていた。
周囲に広がるのは、魔力の匂いすらしない完全な「無」。
吸い込もうにも対象がどこにもおらず、怪物の魔力吸収モードのセンサーは激しい混乱を引き起こす。
怪物側の巨大な吸引回路が、空回りと錯乱でパニックを起こしてギクシャクと軋む。
まさにその瞬間だった。
暴走した怪物が、周囲を焼き尽くすための絶叫を放とうと、大きく喉を膨らませた、そのコンマ一秒の隙間。
「――静寂」
動かない。
焦らない。
ただ、そこに「在る」。
カチッ、と。
納刀されたままの剣の鍔が、極限の速度でわずかに押し込まれた瞬間――それこそが、この一瞬にすべてを賭けた聖の「居合」の体勢だった。
真の剣豪は、無駄な剣を振るわない。
聖の極限の「忍耐」によって研ぎ澄まされた気迫は、刃の代わりに極限まで圧縮された無音の衝撃波となり、敵の懐へと撃ち出された。
それは物理的な斬撃ではなく、怪物の錯乱した魔力回路の「最初の起点」をピンポイントで打ち抜き、システムの同調を完全にへし折るための「見えない一閃」だった。
パァンッ!!
遅れて響いた乾いた打撃音が、巨大な暴風の轟音すら完全に掻き消した。
『ガ……ッ……! ガァァァ…………ッ……!!』
暴発寸前だった怪物の魔力光が、まるで嘘のようにプツリと途絶えた。
巨体はバランスを崩し、ドスンと地面にひざまずく。
〈……は? いま、何が起きた……?〉
〈剣を抜いてすらいないぞ……!? 音と衝撃波だけで敵をねじ伏せた……!?〉
〈すげえ……敵の呼吸が、完全に止まった……!〉
配信のコメント欄は、もはや言葉を失った観衆のどよめきで埋め尽くされていた。
聖は鞘に収まった剣を見つめながら、荒い息を整える。
その双眸には、迷いも焦りも、かつての傲慢さも微塵も残っていなかった。
ただ清々しいまでの「静寂」だけが宿っている。
「これが……先生の教えてくれた、『忍耐』の剣……!」
圧倒的な手応えに聖が息を呑む。
だが、油断はできない。ひざまずいた怪物の足元から、まだ消え切っていない残余の魔力が、執念のように這い上がろうとしていた。
「――お見事ですわ、聖」
沙耶が一歩前へ踏み出す。
その双眸には、もはや焦りや恐怖の色はなく、冷徹で美しい魔導士の眼差しが宿っていた。
「今度は、わたくしの番ですわね。先生、見ていてくださいまし」
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