第十三話 最強の二人が捨てたもの
『――グオオオオオオオオッ!!』
怪物は、聖と沙耶から膨大な魔力を吸い取ろうと、黒々とした無数の触手を一斉に伸ばした。
最強の二人の魔力を根こそぎ奪い去るための、最大出力の吸引。
一般の探索者であれば、その触手が伸びてきた瞬間に反射的に防御魔法を展開するか、迎撃の剣を振るってしまう場面だ。
だが――。
二人は動かない。
動けないのではない、動かないと選んだのだ。
(……来る……っ!)
聖の脳裏で、これまでの数多の戦闘経験が「動け」と警鐘を鳴らす。
攻撃して敵の懐に潜り込み、致命傷を与える。
それが剣聖としての生存本能であり、積み上げてきた実戦の理だった。
それなのに、いまはただじっと立って、敵に自分のエネルギーを差し出すかのように身を任せなければならない。
それは、自分のアイデンティティを自ら否定するような、耐え難い恐怖と焦燥感だった。
隣に立つ沙耶の額にも、冷たい汗が一筋伝っている。
(私たちが……世界を救ったこの魔法を……使わずに、ただ耐えるだけだなんて……っ!)
世界最高峰の大魔導師としてのプライドが、プライドのままでは許さない。
何かをしたい。
自分の力でこの場を支配したい。
その「我欲」と「焦り」こそが、これまでのダンジョンで探索者たちを破滅に導いてきた罠なのだと、頭では理解していても、本能が恐怖に震えていた。
しかし――。
聖は長年相棒として振るってきた魔力剣の闘気を完全に断ち、沙耶は世界を救った最強の杖に込めていた超常の魔力をスッと霧散させた。
普段の強者であれば、戦闘態勢に入った瞬間に体外へとダダ漏れになるはずの闘気も魔力も、一滴たりとも外へにじみ出ないよう、己の内部へと完全に閉じ込める。
二人が意図的に「魔力の匂いすらしない完全な無風」、すなわち、空っぽの器を作り出した瞬間――。
怪物が「ここに旨そうな魔力がある!」と狙いすまして伸ばした無数の触手は、二人の体を絡め取るどころか、吸い付くべきエネルギーの芯を見失い、まるで実体のない影を掴むようにスカリと空振りした。
行き場を失った怪物側の巨大な吸引力だけが、その場で盛大に空回りする。
『ガ……ッ……!? ギ……ッ……!?』
この怪物は、獲物が発する闘気や魔力を吸い取り、それを自らのエネルギーに変換することで巨大な体を維持している。
だが、聖と沙耶は自らの魔力回路を完全に塞ぎ、文字通りの「空っぽの石ころ」と化していた。
旨そうなご馳走だと思って噛みついたら、中身がただの真空だったようなものだ。
何も入っていない空の胃袋を無理やり引っ張られ、怪物は激しい消化不良を起こしていた。
二人が意図的に「無防備な無風」を作り出した瞬間、怪物の吸引プログラムは狙いすましたように空転を起こした。
『ガ……ッ……!? ギ……ッ……!?』
怪物の巨体が、まるで毒を飲んだかのように痙攣したようにビクリと跳ねる。
何も入っていない空の胃袋を無理やり引っ張られ、激しい消化不良を起こしたような悶絶の姿だった。
〈え……? 敵が勝手に苦しんでないか……?〉
〈攻撃してないのに、怪物の息が荒くなってる……!?〉
〈これ、おっさんが言ってた「満腹にして吐かせる」ってやつか……!〉
配信のコメント欄が、信じられないものを見るような驚愕でどよめき立つ。
その圧倒的な手応えを感じながら、聖と沙耶の胸にあった恐怖は、鮮やかな確信へと変わっていった。
自分たちが捨てたのは「強さ」などではない。ただの「余計な我欲」だったのだと。
(――そうだ。先生は、僕たちに「戦うな」と言っているんじゃない。「正しく耐えろ」と言っているんだ)
(それが、先生のおっしゃる……)
聖と沙耶。
同時に同じ答えに行き着く。
――忍耐。
聖は目を閉じ、そして静かに見開いた。
自分の剣技に頼るのをやめ、怪物の気配と自分の心音を完全に同調させる。
焦るな。ただ、そこに「在れ」。
沙耶もまた、震える指先をピタリと止め、魔導杖の重みだけに意識を集中させた。
無駄な魔力を一切逃がさない。
敵の魔力循環のテンポに、自分の存在の波長を完全に溶かし込む。
『――グシャアアアアアアアアッ――!!!』
自らの過剰な魔力に内側から焼き切られ、『深淵の胎動』の巨体が激しく痙攣した。
だが、ここで終わるほどこのイレギュラーは甘くなかった。
怪物は焦るように「超再生モード」へと無理やり切り替えようと、全身の細胞を激しく脈打たせ始めた。
だが、先ほどの魔力吸収で胃袋がパンパンに膨れ上がっているにもかかわらず、さらに代謝を上げようとした結果、内部のエネルギーが完全にオーバーフローを起こしていく。
誰も傷つけていない。
誰も攻撃していない。
ただ、二人が極限の静寂の中で「耐えて立っていた」だけなのに、怪物は自らが取り込みすぎた莫大なエネルギーに内側から焼き切られていく。
〈すげええええええええええ!!〉
〈一切攻撃しないで敵が自滅しかけてるぞおい!!〉
〈これが……粕谷先生の教える「基礎」の力……っ!!〉
配信の同接数はついにミリオンを突破し、コメント欄は称賛と驚愕の嵐で完全に埋め尽くされていた。
崩れ落ちる怪物の足元で、聖と沙耶は荒い息を整えながらも、確かな手応えに拳を握りしめる。
自分たちの強さを捨てる恐怖を乗り越えた先で、二人は初めて、「本当の強さへ至る扉」を開いたのだった。
『――グシャアアアアアアアアッ――!!!』
「まだだ。完全に回路が焼き切れたわけじゃない。死に物狂いの暴発が来るぞ!」
俺の声に、聖と沙耶はハッと意識を引き戻す。
怪物は、自滅の痛みに耐えかねて周囲の空間ごとすべてを飲み込もうと、暴走した全魔力を一点に収束させ始めた。
周囲の氷の壁がバリバリと音を立てて砕け散る。
「くっ……! 最後の悪足掻きですか……!」
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