第十二話 深淵への第一歩
氷獄ダンジョンの凍てつく冷気は、肌を刺すというよりも、骨の髄まで凍りつかせるような重い殺気を帯びていた。
一歩、また一歩と深く潜るたびに、周囲の景色は青白い氷の回廊へと変わっていく。
俺はダンジョン内で、配信用ドローンを引き連れながら、探索を実況配信している。さすがにコメントを読み上げる余裕はなかった。
「……先生、空気が変わりました」
先頭を歩いていた大魔導師の沙耶が、杖を構えながら足を止めた。
その背後で、剣聖の聖も剣の柄に手をかけたまま、わずかに眉をひそめる。
「この先から漂う魔力の質……異常ですね。さっきまでとは比べものにならないほどの瘴気が渦巻いている」
二人の警戒は当然だった。
なぜなら、この通路の先に広がっているのは、先ほどまで「科学的プログラム」で調子に乗っていた『ストライド』の精鋭部隊が飲み込まれた地獄の底なのだから――。
「慎重に行け。油断すれば、お前たちのその強力な魔力ごと胃袋に持っていかれるぞ」
俺が声をかけると、二人は緊張感をさらに高め、背中を預け合うようにして進路を進んだ。
やがて、視界が開けた。
そこに広がっていたのは、氷に囲まれた巨大な地下大空洞だった。
「――っ!?」
沙耶が思わず息を呑み、絶句する。
空洞の中央に転がっていたのは、すべて吸い尽くされ、ぐったりと気絶している精鋭部隊『スペシャルズ』の姿だった。
誰一人として戦闘不能以上の怪我を負っているわけではないが、過剰な魔力の逆流で完全に体力を奪われ、地面に転がるように眠っている。気絶しているようだ。
〈うわ、マジかよ……全滅……〉
〈これがご自慢のメンタルプログラムの末路か……〉
〈なんかシュールで草生えるわ……〉
宙に浮かぶ配信の配信用ドローンを通じてその光景を目撃した視聴者たちのコメント欄が、驚きと呆れで一気に埋め尽くされた。
「……見事な自滅だな」
聖は、かつて自分が所属していたクランのなれの果てを冷ややかな目で一瞥し、ため息をついた。
「自分たちが持つ力を過信し、敵のエネルギーに真っ向から対抗しようとした結果がこれですか。……先生の言う『テンポ・コントロール』の意味が、少しわかった気がします」
「あいつらは『耐える』ことを、ただの我慢比べだと思い込んでいた。だが、本当の忍耐とは……」
俺は視線を空洞の奥へと向けた。
そこでは、液状の闇と無数の瞳をうごめかせ、満ち足りた巨体をドプン、ドプンと脈打たせている『深淵の胎動』が待ち構えていた。
ストライドの精鋭部隊の魔力をペロリと平らげたその怪物は、いまや今まで以上に禍々しい魔力を全身から放っている。
『……あ……う……ぐ…………ッ!』
地響きのようなうめき声と共に、怪物の表面に浮かぶ無数の瞳が一斉にこちらを捉えた。
〈キタキタキタ! ボスのお出ましだ!!〉
〈剣聖とサーヤ様のコンビ、どうやって戦うんだこれ……!?〉
〈おっさんの配信、同接がまたミリオン超えてるぞ……!〉
配信のコメント欄が最高潮の盛り上がりを見せる中、俺は低く声を張り上げた。
「――来るぞ」
怪物の巨体が不気味な赤黒い光を帯びた。
四半刻ごとの「魔力吸収モード」への切り替わりだ。
「聖、沙耶。忘れるな。ここでは一切の攻撃をするな。やつが吸収したいのなら、好きなだけ吸わせてやれ。ただし――一歩も引かず、ただそこに『在り続けろ』」
「「――承知しています、先生!」」
人類最強の剣聖と大魔導師は、己の代名詞である強力なスキルや派手な魔法の気配を完全に消し去り、ただひたすらに、目の前の巨大な怪物と呼吸の波長を合わせるための構えをとった。
『――グオオオオオオオオッ!!』
地下大空洞に響く『深淵の胎動』のうめき声は、聞く者の精神を削るような重圧を放っていた。
しかし、その威圧に負けず、大魔導師と剣聖はじっと堪えている。
――忍耐。
攻撃や魔法を放ち、少しでも行動して優位な状態を作りたい。
そういった焦りこそが、敵の思う壺になる。
だが、S級探索者である二人にとって、行動しないことは思いの外苦痛であった。
自分ならできる。人以上に、うまく立ち回って状況を打開できる。
それであるがゆえに、「あえて行動しない」ということは、尋常ではない焦燥と精神的苦痛を伴うのであった。
ぐっと歯を噛み締めて、耐える。
聖も沙耶も武器を構えてはいるが、闘気は完全に消している。まるで、ただそこに存在するだけの氷の彫刻のようだ。
聖も沙耶も武器を構えてはいるが、闘気は完全に消している。まるで、ただそこに存在するだけの氷の彫刻のようだ。
怪物の表面に浮かぶ無数の瞳が狂ったように回転し、周囲の魔力を一気に吸い上げようと巨大な吸引フィールドを展開した。
四半刻ごとに訪れる「魔力吸収モード」の最大出力だ。
〈うわっ、なんか吸い込まれてるぞ……!〉
〈攻撃しないのか!? このままだと丸呑みにされるんじゃ……!〉
〈剣聖もサーヤ様も、じっと立ってるだけだ……! おっさん、これ大丈夫なのか!?〉
配信のコメント欄には、恐怖と焦燥に満ちた視聴者たちの書き込みが滝のように流れ続ける。
そして、『深淵の胎動』は、聖と沙耶から膨大な魔力を吸い取ろうと触手を伸ばした――。
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