392部:おいたわしい
8月22日。近江国、長光寺城。
信長とその軍勢第一陣は、南近江の長光寺城に入る。
信長にとって悔しい事ではあるが、大船で琵琶湖を押し渡ることはまだ叶っていない。
安土城の中川重政が、現在信長からの直命で近江水軍の編成に努めているが、琵琶湖の制海権を織田家は確保できていない。
信長が恐れる程に浅井水軍は精強だ。舟での移動ならば1日もかからぬ距離だが、安全を考えれば街道を進むよりないのが現状だ。
城では織田家宿老である柴田勝家が、主君・信長の到着を、首を長くして待っていた。
勝家が言うには、六角軍の部隊は少数で動いており神出鬼没で、各地で村を襲撃したり田畑を放火して荒らし、蓄えた兵糧の略奪行為にも及んでいる。
更に問題なのが、安土の中川重政との警察区域が確定していない為、両者の役人が管理区域を巡って喧嘩になるという。特に中川家は新参者が多く、柴田の与力が管轄する土地にも入ってきて、内陸の田畑の収穫も掠め取ろうとするということだった。
朝倉・浅井の反攻に備えて近江国内の守備態勢を確認しなければならない状況下で、領地切り取りや、労働力の農民確保のための小競り合いは困る。未だ伊賀・甲賀地域の警戒も怠れないにも関わらず・・だ。
柴田勝家の退席後に、近江の菓子職人が贈呈した茶菓子を食べる。大津・万見が毒見済みだ。
「奴らの頭の中は、こんな時でも、天下よりも自領の確保に一所懸命なのか?」
「中川殿も柴田殿も、戦場で活躍するために役に立つものを召し抱えねばなりません。戦費の為に収入は確保したいのでしょう」
大津伝十郎が二人の肩をもつ。
「煩わしいのぅ。伝十郎・仙千代、お主達で上手く裁量してやってくれ」
「「ははっ」」
ある意味、常に己が力で切り取ってきた信長の姿勢を、部下たちも学習しそれを見習って忠実に実行している・・とは、苛立っている信長本人に、今はちょっと言えないなと思う二人だった。
********
長光寺城の楼閣最上階に登り、南近の平野を見渡す信長。
「浅井から奪われた“双葉矢の剣”は見つからないのか?」
あの霊剣が奪われたという速報が入ってから、どうも世の中の動きが慌ただしくなり、信長にとって良いことが起きているとは言い難い。
各地で起きる戦火の報告を聞いては、奇妙丸から聞いた“高賀神女”が心配していたように、霊剣の魔力は日々増大して世を覆うようになってきているのではないだろうか・・と感じることが多くなっている。
長政の母、阿古“神女”御前と霊剣の両方が揃わなくては、天下の静謐が戻らないのではないかと、信長もそう思い始めていた・・・。
信長の傍らに影のように控える伴ノ太郎左衛門に、竹生島から持ち去られたという剣の行方を聞く。
「六角義治の持つものは偽物。本物の剣は伊賀者の“音羽の城戸“が所有しているようなのです。伊賀の警戒厳しく、侵入もままなりません」
「そうか、たしか“盾崎道順”率いる野盗を引き継いだ者だったな」
「殿が御所望ならば、私自ら潜入し首領“城戸弥左衛門”を見つけ出して手に入れますが」
「いや、無理はいかん。ただの伝説に過ぎぬ剣だ。そこまで過敏にならずともよいだろうと余は考えている。最終的には手中に収めねばならぬが」
「はっ」
「霊剣のことは義治のは偽物だと噂を広めればよい。それよりも、明智、和田、山岡、黒川といった南近の将軍奉公衆の動向を注視してくれ。奴らがどの勢力を支持するかで、我らの京都への足掛かりが揺らぐことになるからな。南近江の地とて危うくなる」
「はっ」
「摂津に出陣するにあたっては、山城の長岡の奉公衆の動向も重要になる。そちらも抑えておいてくれ。奴らは利にさとい」
「畏まりました」
太郎左衛門は物音ひとつ立てずに静かに退出した。
「殿様、松永殿から早馬です。和田惟政、三好義継、畠山高政、三好の軍勢の前に撤退。尼崎城、古橋城は落城。伊丹城は持ちこたえている。と」
松永久秀は流石だな・・。
的確な情報に改めて老将の敏腕を感じる。
「今後国衆達は、領地を人質に、前線に出張させるか・・」
琵琶湖を眺めながら、呟く信長。
太郎左衛門に代わり、万見仙千代が信長の傍に控える。
堀久太郎が夜風にあたる信長を心配して羽織をもって参上した。
「尾張の者や、三河の者は上洛と言う言葉に憧れ、都の発展を実際に見て、都に住み生活したいと思うのは道理ですが、近江や山城の者達は逆に地方に出される時はどうでしょうね?」
仙千代が応える。
「そうか、ならば都になれると、地方の片田舎に飛ばされるのを嫌がる者も、近い将来現れるかもしれぬなあ・・」
「確かにそうですね。都には地方では得難い、そう文化的な魅力が在りすぎます」
久太郎が都の感想を述べる。
「余は肩身の狭い都に座を置くのは嫌だが。人生は自由と、創造の時間が余には大切に思えるぞ」
「確かに、信長様のおっしゃる通りですね。村井貞勝様や島田秀満様、それに坂井好斎様はあのご老体にて良く頑張られていると思います」
大津伝十郎が応じる。
「都は誘惑が多いから、分別のある年寄りがいた方が良いのだよ」
傍衆に諭すように、かつ適材適所の配置を自慢する。
「ご深慮にございます」
仙千代が持ち上げて会話が終わった。
上洛した西三河・尾張・美濃の侍衆。実際に暮らしてみての価値観の内面的な変化ばかりは、本人にしかわからぬものだ。
信長は幼少期を林や平手といった怖い大人たちに囲まれながら、今川家から勝ち取ったばかりの敵地に近い熱田方面の抑えとして、戦略的に那古屋城に押し込められてきた。
毎日、毎日・・・、
平手・林からは、この世に生き残るための文武の教育をひたすら叩き込まれた。
その反動で、自分の故郷や本拠地とする場所に愛着や拘りがない。
一つのところに留まるよりも、ヤドカリのように常に目的に応じて、新しい場所を見つけ、新しい機能を備えた建物を築く。目標達成のための改善・改良の試行錯誤が好きだ。
自分の代で畿内の色々なことを一掃し、筋道をつけ、あとは奇妙丸がそれを継いで実行していけばよい。天下静謐が成った暁には、日本国の外に自分がやりたいことはまだまだ有る。
(広い世界を俺は見るのだ!)
現時点では、信長の世界見聞願望は奇妙丸の願望よりも強烈だった。
「そのうち、都のことも奇妙丸に任せよう!」
伝十郎、仙千代、久太郎は何事もなかったかのように静かに控える。
(おいたわしや奇妙丸様・・)
と傍衆は思った。
父・信秀にくらべて、我が子を部下に預けず、身辺にて奇妙丸を育てた。
しかし、信長の立場が大きくなるにつれて、逆に奇妙丸を家に縛り付けることになっていったとは、考えてもみなかった。
奇妙丸自身は、父のことをどのように思っているのだろうか・・。
自分は母親の愛を知らない、逆に母親に嫌われ憎まれ弟のために毒殺されそうになった。
奇妙丸は母親を幼くして亡くし、義母である奇蝶の下で育った。
自分と奇妙丸は、母親の愛を、母性を欲しているのかもしれぬなあ。そこは似た者親子となったのかもしれない・・。
奇妙丸にはいずれ、自分のものを全てくれてやろう。
その思いには揺るぎないものがあった。




