391部:水野信政
美濃国金華山の麓、岐阜城山麓御殿。
出陣前の諸将のもてなしに慌ただしい城内。
奥御殿の信長の正室・奇蝶御前に挨拶にくる美濃の稲葉や尾張の林など親族衆、その家来衆が居る。それに新しく信長の室に迎えられたお鍋御前が加わり、近江衆が縁故を頼って挨拶に赴いていた。故生駒御前の土田一門や親族衆も奇妙丸にご機嫌伺いの挨拶に来る。
お客人への配膳をもって廊下を進む桜。
「おい、伴の、伴の桜」
織田家の同盟者・水野信元の嫡男・水野藤四郎信政が桜を呼び止めた。信政は従兄弟の弥九郎信俊とともに奥の間にお邪魔し、親達から託された用事を終えて退散するところだった。
「お主の父は、桶狭間で亡くなったというではないか」
誰かから教わったのか、相手は桜の顔と身元を承知していた。
桜は両肩を掴まれ、ビクッと身構えた。
「俺は知多水野家の嫡子・信政だ。どうだ、儂のところに来ぬか。側室として迎え、子が出来れば伴家の旧領地を与えてとらすぞ、家名復興もできて一石二鳥であろう」
「お断りします。私は殿様と奇蝶様から奇妙丸様のお傍にて安全をお守りする使命を仰せつかっていますので」
初対面で何を言い出すのかと、即答する。
「おいおい、いい話だと思うがな? 信政の顔があれだったら私の所でも良いぞ!」と信政と旧知の間柄のようである久松信敏が自分を売り込む。
余計なことをと、信敏を睨みつけて軽く威嚇する信政。仲の良い貴公子同士のじゃれ合いの様子だ。
「どちらもお断りします」
と御膳の中のものを落とさないように、静かに両肩をゆすって引き下がる。
「ふん。そうであるか、ではまあ今日のところは忙しいので引き下がろう。今度、殿様と奇蝶様のお許しを得て、いずれ私と言う男の良さを教えてやろう」
と桜に向かって間合いを詰める。
「けっこうです!」
「気が強い女だな、だが、俺はその強気が嫌いではないぞ。強い子を産めそうだ。馬と同じで躾けがいがあるというものだ、ハッハッハッハッ、では、またな!」
(この人、会話の入り方からおかしい。気持ち悪い)
桜は両人を嫌悪し、こちら側からは絶対に近づかないと心に決める。
いざとなれば介入しようと、遠巻きに様子を見ていて、このやり取りにドン引きの傍衆達。
「桜の怖さも知らないで、女扱いしている・・」
正直な感想を述べた平八郎を、桜がキッと睨みつける。
「ごめんなさい」
「それにしても見るからに、感じの悪い奴等だなあ」と、佐治新太郎。
新太郎は知多にも縁があるので二人の噂は承知している。
「あれは、最初から嫌われようと声をかけたのかな?」と、金森甚七郎。
金森は近江・美濃の本貫地なので知多とは疎遠だ。
「自分が嫌われたのを分かってないのかな?」森九一郎(於九改め)は二人の鈍感力に驚いた。
今回は森軍に従軍せず奇妙丸の傍に残った九一郎。
「いや、よっぽど自分に自信があるのでしょうね」
金森を越えて最年長の傍衆・惟宗宗五郎がまとめる。
「ナマズ、ナマズ」と地震と間違えて小倉松寿丸が連呼する。
「なへゆるのことじゃないよ!」と兄・甚五郎が黙らせる。
お鍋の方の連れ子の小倉兄弟は、同じ新参の惟宗について回るようになっていた。
「しかし、どうしたらあそこまで傲慢になれるんだ? 病気かな?」
千秋喜七郎季信(喜丸改め)は、自分が特別だと思っている水野信政の態度に納得がいっていない。血統からいえば尾張千秋家の方が、歴史は長く由緒正しい。
「さあ、どうだろうね」
軽蔑と共に、関わりたくないなと思う傍衆達だった。
同族の恥ずかしい行いに小さくなる水野於藤。傍衆である桜の情報が於藤から漏れてしまったのは間違いない。
互いにヒソヒソ話をする加賀井弥八郎(弥八改め)、新規加入の飯沼勘丸(のち勘平)、丹羽次丸(のち次郎助)、佐々清丸(のち清蔵)、毛利岩丸。
梶原平八郎がパンパンと手を叩くと、それぞれに仕事が待っていることに気が付いて解散する。
山麓御殿、千畳敷の大広間。そこでは、信長の不在で手薄となる尾張・美濃・西三河の防備についてと越前・北近江からの侵攻に対して、いざと言う時の奇妙丸の出陣についても話し合われていた。
尾張には生駒本家の家長や坪内家、佐久間の本家や前田、津島の祖父江、堀田。清州の浅野、埴原はじめ青山、坂井、河野、山口、篠岡といった奉行衆が残り、熱田には神職本家の千秋一門や岡部、加藤といった町衆の面々が留守の治安を預かっている。
美濃では旗頭となる三人衆は出陣し、佐藤、赤座、市橋、猪子、丸毛といった老臣たちが居残っている。
そして奇妙丸の傍には、阿濃津湊奉行:津田掃部助入道一安、知多領旗頭:水野下野守信元、国衆の久松佐渡守俊勝などの親武田派の面々が、武田信玄公と信長との今後の方針について、最新の情報を知らないかと詰め寄っていた。
武田家からの帰還以来、信玄公に見込まれた婿殿として、最近では政治向きのことも、奇妙丸には自然と降りかかってくるようになって来ていた。
甲斐・信濃国から引き揚げてきた奇妙丸と傍衆に代わり、松姫付きの傍衆として、各城主から一族の者を一名、新館に奉公させてはという、いわば同盟の為の人質の供出が提案された。
武田への人質として再び織田家の嫡男である奇妙丸を、甲州まで下向させるわけにはゆくまいという配慮が働いているらしいが、前回の甲州行きで奇妙丸が大変厚遇されたことも、一緒に帰還した大工・左官達が土産話から、あっという間に世間に広まっている。
武田家の中で奇妙丸様が厚遇され安全が保障されたなら、ならば我が身内もと各国衆・豪族たちも安心して松姫の下に奉公へ出そうと動き始めた。
いわゆる二股戦略だが、織田奇妙丸に仕える呈で武田家(武田松姫)にも奉公できる。自分の子弟達があわよくば松姫や信玄公に見込まれれば、武田家直参に出仕する機会を得ることもできるかもしれない。そうなれば、本家分家の枝葉が広がりこの戦国の世でも家名を次世代に繋ぐことができる。
知多の大勢力となった水野家からは、先程桜にちょっかいを掛けていた嫡男の水野信政が、与力では久松信俊などが自ら立候補して、松姫に出仕するという。
これに倣い東美濃では遠藤や遠山氏、西三河でも石川、本多、大久保、天野、野一色氏、東三河は菅沼氏や、土岐氏。遠江国では小笠原や飯尾氏などだ。今川家が滅んだ今、武田領に国境の近い国衆達は、それほどに武田家を恐れていた。
桜に声を掛けてきた信政なら、松姫に対しても失礼な態度に出るのではないかと心配する傍衆達は、気負付けた方が良いと奇妙丸に進言する。
「私は、最初にかけられた言葉から、嫌悪感しかありません」
「そうか、困った奴だということは、良く分かった。進言有難う」
「はい」
「松姫は人を見る目がある。信政めが不要な野心を持つものならば、きっと遠ざけてくれるだろう」
小さくなっている水野於藤が更に畏まり、奇妙丸的には居た堪れない気持ちになる。於藤も今回の件に凝りて信政や信俊に詳しく内情を教えたりはしない筈だ。
傍衆達の信政・信俊警戒運動は立ち消えとなった。
そして、奇妙丸に匹敵する価値のある人質と言うことで、信長の同盟者の跡継ぎである信政の甲州行きについては何も言えなくなった。
数日後、信長の許しの返事を得て、松姫に出仕を希望する者達が甲斐の新館を目指し旅立って行った。
「甲州で何も起きなければ良いが・・・」
奇妙丸達の悩み事が一つ増えるのだった。
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