370部:武田家
駿河国駿府、朝比奈館。
館の長い廊下を、凄い勢いで歩く男がいる。速度は普通の人の三倍程はある。全身を赤い衣装で統一した、甲斐武田家譜代家老衆:山県三郎兵衛尉昌景だ。
「この時期に、測ったように甲府に来るとは迷惑な客だ。私は前線で功を立てたいというのに。御屋形様の戦力にもなれない。御屋形様の命でなければ織田小僧の護衛など断ってやるのに!」
ドンドンと響く足音と、大きな声で愚痴をこぼしながら進んできた山県が、勢いで戸に当たらぬよう、見張り番侍衆が慌てて部屋の襖戸を開けた。
赤づくめの男が陽光を背に駿河先方評定の間に入る。
「まあよいではないか、この縁談が天下への布石となるやもしれぬ」
「聞こえていましたか(笑)。御屋形様の命にて三郎兵衛尉:昌景、松姫様ご一行をお迎えに上がった」
駿河御留守番頭の馬場信春が昌景を出迎えた。
「あの音量での愚痴だ、館の外にも聞こえるのではないか(笑)」
先方評定衆が馬場に釣られて笑う。昌景の登場で緊張した空気が、老将:馬場の一言で緩和された。
「(遠江国)高天神の小笠原が兵を率いて上洛するという。花沢城から逃げ込んだ大原一党を滅ぼすには、今が千載一遇の機会なのだが・・」
まだ愚痴をこぼす山県。
「仇は敵也、情けは味方也。寛大な処置をとることも必要だ」
老将らしく山県を諭す馬場。
さすがに若い板垣信憲と甘利昌忠では制御しきれないだろう。
「馬場殿にしては甘い、災いの根は断絶せねばならぬ」
山県の言葉に動じぬ馬場美濃守。
「織田との同盟は重要だ。それに高天神城の小笠原長忠の下に逃げ込んだ今川の家臣共。忠義に厚い者達や武田に肉親を殺され恨む者もいる。
今後、奴らは武田に従う見込みはないだろうが、織田家に入り込んで桶狭間の仇を討つものもいるかもしれぬ。信長が自分で作った仇で自滅する場合もある。焦るではない」
「運は天にありですか(笑)」
一応、馬場の言葉に納得したような昌景。
確かに、今川家にとって悪夢のような「桶狭間の合戦」が無ければ、武田が駿河を占領下に置くことも無かっただろう。
山県昌景と先方評定衆が、奇妙丸歓待の打ち合わせを終え帰った後。
「昌景は、最近は異様な迫力がありますな」
と美濃守信春の弟、教来石信頼が兄に囁く。
「御屋形様への猛烈な忠誠心で、兄の飯富兵部を斬った男だからな、そのうち兄を超えるような甲州随一の猛将に育つだろう」
「味方ながら、恐ろしや・・」
その言葉には、同じ武田家臣でも謀反の疑いありと、昌景によって疑念を持たれては、問答無用にて容赦なく粛清される恐れがあるという意味が込められていた。
山県昌景の赤い装束は、信玄への絶対忠誠の「正義*」を表すものだった。
*平安末期、平家の総領:平清盛の子飼い「赤かむろ童子」が平家に反する都の者を取り締まった前例がある。信長の親衛隊である赤幌(赤母衣)武者衆も、武田家の赤備えを参考に創設された。
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武田松姫と奇妙丸の到着を受けて、駿河国では隣国相模北条氏との境界争いを控え、平和的な歓迎祝賀の雰囲気を醸成するように動いている。
以前、駿府城の今川御殿は馬場美濃守の放火により宝物と共に焼け焦げてしまったが、武家屋敷等は放火を免れて残されていた。都市自体は行政的な面では機能を失ってはいなかった。
現在は今川の重臣だった朝比奈家の屋敷が、武田家老衆の奉行所だ。
板垣、甘利、馬場といった主要重臣が、信玄の名代として駿河の御留守当番奉行を務めていた。ここにいない内藤は上野、高坂は信濃海津、秋山は西信濃から美濃方面で睨みをきかせている。
跡継ぎ義信の失脚で、御名代として台頭した諏訪四郎勝頼には跡部や今福(長坂)といった守役達が取り巻き次世代の重臣として育っている。
義信の後見役取り巻きであった飯富、長坂、曽根、駒井らは辛酸を舐める結果となったが、駒井は松姫付きの家老として織田家と融合の道に未来の活路を見出そうとしている。
駿河国では、既に織田軍の新戦艦の噂は駆け巡り、「織田水軍侮りがたし」との風評だ。駿河民衆から一度艦内を見てみたいという、予想以上の申し出が殺到した(もちろん武田の水軍衆や、隠密調査の忍びも含まれるだろう)。
信長は予めこの事態を想定しており、同盟国である武田の民衆を拒むつもりはない。そして、織田家の財力と軍事力を誇示するためにも、むしろ積極的に建造当時から新造艦を公開してきた。
こうして、水軍の長・服部政友はというと艦内見学の対応に追われることになった。
「駒井、織田家の面々をご紹介ねがおうか」
重鎮・馬場信春の言葉に駒井昌直が応じる。駒井は織田家の評判の高さに、松姫付きとなったことに誇りを取り戻し、久々の気分の良さを味わっていた。
「織田奇妙丸殿とその連枝衆(一門衆)の津田御坊丸殿、馬廻衆の山科楽呂左衛門殿とその室・山科結姫様、戦艦警護の黒武者衆:浅野、桜木、山口殿、服部政友殿は御座船にて御帰還準備、皆様ご存知の松姫護衛黒幌武者の川尻殿、そして奇妙丸様の乳兄弟で傍衆の梶原平八殿でございます」
馬場が奇妙丸をじっと見据える。
「ようお越しになられました婿殿。私は信玄公から駿府を預かる馬場美濃守信春と申します(イラスト参照!)」
「板垣信憲と、甘利昌忠のご両者は面識があるのだったな?」。
「はい、お久しぶりです奇妙丸殿」
板垣は歓迎の笑顔をみせる。
「おひさしぶりです」
甘利は礼儀正しく挨拶する。
「お初にお目にかかる、私は山県三郎左衛門昌景。御屋形様が躑躅ケ崎の御館にてお待ちになっております。甲府までは私が同伴します」
「貴方が山県殿ですか、御高名は三河の者から伺っております」
「私など、鬼美濃守殿にくらぶればヒヨッコ。お恥ずかしい限りです」
「馬場殿、山県殿、高名なお二方にお会いすることができ感激です!」
織田家の嫡男にそこまで感激されておも歯がゆい感じだが、悪い気はしない。山県は奇妙丸の件を許すことにした。
とにかく赤い人だ。奇妙丸が山県に抱いた第一印象だ。
前田殿も織田家の赤幌の一番だった時、戦場では赤い井出達だが、普段から赤染一色でそこまでかぶいてはいない。
芯からの赤男、織田家には居ない形の武将かもしれない。
それにしても、居並ぶ駿河先方衆も壮観だ。
元今川衆は織田家に対して良い感情を持っているとは言えないだろうが、今は武田家の臣として昔のことは昔のこと戦国の世の習いとして水に流してくれている様子だ。武田家はしっかりと今川家臣団も組み込んでいるという証拠だろう。
機会があれば駿河の旧今川の人達とも話がしたいが、山県はゆっくり寄り道はさせてくれそうにない雰囲気だ。
こうして、奇妙丸は武田の家老衆と無難に挨拶を取り交わし、早速武田信玄入道の待つ躑躅ケ崎館へと駒を進めて行くことになった。
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甲斐国、躑躅ケ崎の御館。
「兄上、本願寺様からの書簡で、御屋形様はご決断されたのでしょうか?」
兄:武田典厩信豊に尋ねる、望月太郎信永。
二人は信玄の弟で川中島の合戦に戦死した典厩信繁の実子、典厩信豊は奇妙丸よりも六歳年長、信永は早世した兄:望月信頼の代わりに望月家に養子に入り元服したばかりだが奇妙丸の四歳年長で歳が近い。
「まだ、わからぬ。松姫が奇妙丸を伴って帰国される。婿殿となる人物のその人柄をみてからの処置ではないだろうか。織田をとるか本願寺をとるか、やはりご嫡男を見てからでないとな」
従妹の松姫の婿となる織田奇妙丸は二人にとっても気になる存在だ。
「それでは、婿殿は粗雑にはお迎えできませんね」
今、甲府には四国の三好三人衆、南近江の六角、北近江の浅井、越前の朝倉、そして石山本願寺の顕如からの密使が訪問しており、かつてなく大盛況の賑わいだった。彼らも武田と織田の同盟の動向を探ることだろう。それに同盟に水をさすように邪魔をしようと思う輩もいないとは限らない。
反幕府の人間が出入りしていることは後ろめたいが、織田家にこれを悟られてはならない。武田家は、将軍:足利義昭を冠する室町幕府の準血統(同じ源氏一族)であり、忠実な守護大名である。
不穏な政情の中で、甲府では武田家御親類(一門)衆により松姫・奇妙丸を迎える用意がされていた。
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美濃・近江国境 坂田郡付近
丹羽長秀と木下秀吉が、それぞれ堀秀村の領地である鎌刃城、長比城に居た。
鎌刃城の当主:堀秀村には長秀、長比城の家老:樋口直房には秀吉がそれぞれ交渉を行い、織田方につく諸条件について調整し、浅井方から手を切らせることに成功していた。
「まこと奇妙丸様のお陰にて話が早い。人徳だな」
秀吉が傍らにいる家老衆に若殿:奇妙丸のことを褒める。
「うむ、頼りになる若殿だ」
秀吉付きの与力頭衆:蜂須賀小六、前野将右衛門、寺沢等が賛同し頷き合う。
「それに松尾山城に竹中半兵衛殿が残って居てくれたことが最も大きかった、美濃と兵站戦を結んで経済協力の結びつきが出来ている。奇妙丸様の人員配置の見事さよ!」
「秀吉殿は奇妙丸様にゾッ魂ですね(笑)」
前野将右衛門の指摘に、ウッキーと猿の真似をする。顔が赤いので猿そのものの愛嬌だ。
「これからも、半兵衛殿と作戦行動が出来るよう、奇妙丸様によくよく頼もう」
「若殿直属の武将が、うちの軍団に目付として派遣されてくるというのは、あとあと良い結果になるかもしれんな」
蜂須賀小六が髭をなでながら遠い先を予見する。
「そうであろう、そうであろう」小六に肯定されて、秀吉は満足げだ。
「織田家随一の働き者丹羽五郎左殿と、天下の智将:竹中半兵衛殿から、色々と吸収できる好環境にある。それに儂を支えてくれる川並の兵達。わしゃ幸せ者じゃ」
そういって配下の者達も喜ばせる秀吉だった。
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書き足しました。




