355部:前夜
菖蒲ケ岳城、本丸。
陣幕が張られた本丸の本陣に、奇妙丸に呼ばれた森於勝がやってきた。
陣幕をくぐり篝火に囲まれた中を進み、奇妙丸の正面に控えた於勝の表情からは、今も於勝が思い悩んでいることがわかる。
「お呼びですか奇妙丸様」
陣幕の内には奇妙丸と於勝、二人しかいない。
「於勝と話がしたかったのだ。於勝が自分の軍を率いるとなると、いつものように容易には語り合うことも出来なくなったのでな」
「そうですね・・私も奇妙丸様に個人的にお願いがあります」
「なんだ、願いとは?」
「我等で、六角家の本拠地、鯰江城を直接狙いませんか」
「むっ。ちとそれは大胆すぎるのではないか」
「俺は大将首をあげて、兄に報いたい。兄を死に追いやった六角、浅井、朝倉。奴らの首を必ず取ると決めたのです」
「その気持ちは分かる。だが、あちらは甲賀衆で防備が固められた敵の本城。倍の軍勢でも落とすのは難しいだろう。そのような死地に安易に皆を向かわせるわけにはいかぬ」
「・・・」
「それに、於勝。急ぎすぎだ。もし計略にはまってお前が死ねば母御前や弟達が悲しむぞ・。」
「・・・・」
「私も於勝を死なせる訳にはいかない。私は武将としてまだまだだ。
父・信長や丹羽殿、お主の父・鬼三左殿、瀧川殿、柴田殿に佐久間殿、戦場で大軍を率いる経験や力量、まだまだ、はるかに及ばないと思っている。
二十七歳の時に今川義元を討った父など、神のような遠い存在だ。
その分、於勝や於八、それに忠三郎に力を貸して欲しいと思っている。私と共に、これからの織田家を守りぬき、皇朝を支えるために、命を粗末にしないでくれ。
それに、私は於勝を実の弟のように思っている。頼む」
「奇妙丸様・・」
やはり自分の意見は受け入れられなかったという思いと、奇妙丸から寄せられている気持ちとの狭間で困惑する於勝。
「お主を心から信頼している。だから、頼む。無茶はするな」
「俺はどうすれば良いのですか、俺も忠三郎のように戦場に出て兄の無念を晴らすべく戦いたいのです」
「うむぅ・・」
忠三郎は、観音寺城を六角家に奪われぬよう、先に近江入りした斎藤内蔵助利三に従って目覚ましい軍功を上げていると聞いた。
「このままここで燻っていては、奇妙丸様のお役に立てないと思うのです。俺は戦場で経験を積み、真に奇妙丸様を支えたい」
於勝の父・森三左衛門可成は、京都に近い宇佐山城を拠点に、最前線で各地の敵に備えている。於勝は森家の跡継ぎとして、蒲生忠三郎のように前線に出たいと考え始めているのだろう・・。
「於勝・・この戦いが終わり、織田軍が無事に岐阜へ帰還すれば、必ず父に相談する。だから今は、味方が戻るまでは、自分の気持ちを抑えて、私に従ってくれ」
「分かりました。俺も奇妙丸様を困らせたい訳ではないのです。ただ、
これから先、大将・奇妙丸様ご出陣の戦いがあれば、奇妙丸様の下に戻り必ずや先陣を勤めます。これだけは誰にも譲る気はありません」
「お主の気持ちは分かった」
於勝は奇妙丸に頭を下げて、陣幕から出て行く。
自分の思いを言葉に出し、すこしすっきりとした表情だった。
逆に奇妙丸は、於勝を武者修行の一環として父・可成の下で軍務に励むことを父に進言すべきなのだろうかと悩むことになった。
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しばらくして、於勝に代わり陣幕内に入って来たのは武田松姫だ。
「大変ですね」
「松姫」
「奇妙丸様は、周りの人を大切にするお方なのですね。美濃から帰ってきた武藤喜兵衛も言っておりました。奇妙丸様からのお手紙を拝見していると、私も皆と一緒に旅をしているようで、次のお手紙が届くのを本当に心待ちにしているのです」
「松姫・・」
「あっ、ちょっと恥ずかしくなりました」
「このような危険なところまで、会いに来ていただいて本当にうれしいのです。義叔父・浅井長政殿が、織田家の敵となり、心細くなっていたところを、こうして。
武田の皆さんは本当に心強い御味方だと考えております」
「奇妙丸様も一人で考えず、困ったことがあったら私に教えてください。妻として支えたいのです」
「志摩の時も、今回も、ありがとう松姫」
松姫に感謝の気持ちを伝え、姫の両手を握る奇妙丸だった。
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陣幕の外には、松姫を護衛してきた駒井兄弟が控えていた。
口に手を添え、弟の耳元にて小声でささやく右京昌直。
「流石、信玄公の御息女・松姫だ。奇妙丸殿を虜にしているな。奇妙丸殿は武田家の良い婿殿になる」
同じように、ひそひそ声で返す宮内。
「そうですね.義信様のように信玄公と意見の違わぬようになることを祈るのみです」
「我等一族の浮沈、松姫にありだな」
「明日は磯野員昌に全力であたり、なんとか街道往来の件を納得させましょう」
「うむ。久方ぶりに我が闘志が燃えてきたぞ」
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さらに陣幕の上の樹木から、伴ノ三郎と四郎が、その様子を見ていた。
「あちらの繁みに居るのは武田家の者達だな」
「松姫の護衛なのだろう」
二人は於勝が陣幕に入る時からそこにいて、不測の事態に備えていた。
「奇妙丸様も不安だったのな・・」
「当たり前だろう。あの御年齢でこの難局だぞ。荷の重さは相当ある」
「我々も力になりたいが・・」
「我らを代表して桜が奇妙丸様を元気づけてくれるだろう。
この試練は、武家に生まれた者の宿命だ、それに・・信長様のご嫡男だ。これから先の人生も生ぬるくはないぞ」
「そうだな・・」
「うむ」
「甲賀は黒川衆の動きが読めぬ。鯰江城に出入りしているようだ。それに伊賀は竹富島で戦った音羽城戸48人衆が、再び六角家に雇われたという噂がある」
「奴らの狙い、何だと思う?」
「傭兵の首領・城戸弥左衛門は鉄砲の達者というぞ」
「・・」
竹富島の戦いの時の手応えからも、一筋縄でゆく相手ではないことは分かっている。
しかし、これから先は、二人の想像を越えて、
伊賀甲賀を二分する、
織田派と反織田忍者の、生き残りをかけた本格的な戦いが幕をあけようとしていた。
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