336部:無双・斎藤利三
元亀元年五月(1570年)山城国、京都
信長は、帰京して間もなく「御所作事(天皇御所修復工事)」を視察し、京都の民衆に自身が健在であることをみせた。
信長の父・信秀も、斎藤道三に敗戦しても普段と同じく堂々と過ごしていたという。
勝ち負けは後からついてくるもので、合戦後の処理が、政治的・経済的影響力に今後どうつながるかが重要だと、信長は父の生きざまから教えられた。
しかし、幕府(織田信長)軍の敗報に接し、畿内各地では反幕府・反織田の豪族たちが一斉に挙兵した。
四国に逃れている三好家の三大将、三好長逸・三好政康・篠原長房(元三人衆の岩成友通は没落)は四国から再び京都に入洛する日を目指し、兵庫・摂津や和泉の湊を狙う。
更に、近江の六角義賢・義治親子、伊勢の北畠親成や南伊勢の本田党、北伊勢の神戸・関家の不満分子も皆、信長が敗北する日を待っていたのだ。
若狭の武藤友益は、織田軍が撤収し、もぬけの殻となった佐分利石山城を奪取し、再び反幕府を唱えて蜂起した。京都の近隣では、山城の渡部氏が、寺社や貴族の領地を横領して反抗の狼煙をあげていた。
5月3日、信長は御所に参内し、白瓜を献上して若狭成敗の結果、大勝を得たことを報告し、正親町帝の御心を安堵する。
帰宅した信長宿所には、山科言継、松木宗房、三条公仲、白川雅朝、中原師廉等の親織田の公家衆が訪問し、信長執事の林秀貞が取り次ぎ接待した。
また、坂井好斎の取次で、松永久秀、畠山高政、徳川家康の三大名の訪問を労う。河内に戻った三好義継からは書状が届き、今後の方針を話し合った。
その一方で、信長は甲賀・伴ノ衆を使って、反乱軍の動向だけでなく、内部の膿も出し切るべく幕府軍、織田軍の内衆の情報収集にも専念していた。
幕府内部では将軍とその相番衆、将軍が任命した守護大名・三好義継や、池田勝正、松永久秀、波多野秀信、一色藤長、細川藤孝、畠山高政、徳川家康の動向にも気をつけねばならない。
また、同盟者の武田信玄や上杉謙信、西の毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の動向にも注意する必要があった。
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5月初旬の美濃国、岐阜城。
織田家嫡男の奇妙丸には、信長が上洛していない濃尾本国の治安を維持する責任がある。
尾張・三河方面では特に反攻に出ようという敵対勢力はいない。美濃も東美濃と北美濃はいたって平静だ。
これは、武田家との和平条約が有効に機能している証拠だろう。
婚約者・武田松姫と、義父となる武田入道信玄に、感謝の手紙を執筆し贈り物を送付する。
問題は、浅井家と国境を接する西美濃の周辺で、領主や農民も、六角氏や浅井氏に乱入され食物を奪われ田畑を荒らされることに怯えている。
奇妙丸は、自領にまで攻め込まれ、国主として民を失望させることのないように、「敵は国境外もしくは付近で必ず撃退せよ」という信長の教えを忠実に実行する責任がある。それに、不破ノ関から以西への京への街道を死守しなければ、せっかく盛んになった流通を滞らせてしまうことになる。これは織田家にとって大きな損失だ。
奇妙丸は、南近江に向けて出陣して、京都に続く街道の様子を確認することに決めていた。
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南近江。
高賀郷にて奇妙丸と別れた斎藤利三は、織田家の敗報の情報をいち早くつかむや、京都への上洛を試みる。
まず、近江坂田郡を突破する必要があるが、坂田郡の大領主、長比・鎌羽城の堀次郎秀村と、その執事・樋口三郎左衛門直房は知人であったので、
自身は将軍をお守りし、幕府軍を率いる為に入洛する必要があると説得する。
領主の堀秀村は、突然の浅井家の離反だったので、ご隠居・浅井久政の指示に従ってよいものか迷いがあった。
そこで、「ここは動かぬが無難」という樋口の意見を聞いて申し出を了承し、領内を織田(斎藤利三)軍が通過することを見過ごした。
次に犬上郡の要衝・佐和山城下を抜けることとなるが、城主・磯野員昌は小谷城清水谷の会議に参加していた為に不在だったという幸運もあり、城下の関所を破る。
次に旧六角領内神崎郡、東山道を塞ごうとして鯰江城から押し出してきた六角軍が、旧和田山城と旧箕作城を抑えて待ち構えるが、この両城を無視して東山道を駆け抜けた。
野洲郡の永原飛騨守とその一門の五人家老衆、蒲生郡の蒲生賢秀と連絡をとり、布施藤五郎、菅六左衛門、速水甚六郎左衛門らを糾合して、六角義賢の居城だった観音寺城下にて六角軍を撃破し、観音寺城に到達し入城していた。
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